「大刑」第二話 刑部少輔@たか先生作

 さて――。翌日から私のお城での生活が始まった訳でございますが、それは初めに吉継様にお目通りした時の印象通り、奇妙なものでございました。
 まず私の職責は吉継様のお身の回りの世話をする事、というお話でしたのに、初めにお目通りして以来、ほとんどお顔を拝見する事もない、という毎日が続きました。吉継様は、人前に出るのがお嫌な様でございました。お会いになるのはほとんど御家老衆だけで、家中の士でもそのお姿を見た者はまれである、と当時言われておりました。
 けれど、私にとってはその方が有り難うございました。と申しますのも、あの吉継様のお顔――特にあの血に濁った目が強烈な印象となって忘れられず、吉継様に会うのが無性に恐ろしかったのでございます。
 もう一つ奇妙だった点は、このお城には女気が全くない、という事でございました。初め私は奥様のお下知に従って働くものと思っておりました。そこで翌朝参られた前田様にその事をお尋ねしたのでございます。すると前田様の御返答は意外にも、
「奥様はいらっしゃらない」
 というものでございました。よく聞いてみますと、奥様どころか吉継様は側室の一人も持たれず、お側にお仕えする女は私一人だというのです。
「殿は、女というものを好まれぬのだ」
 前田様がおっしゃいました。
 これは驚くべき事でございます。私などが申すまでもなく、武家にとって最も重要なのは、跡を継ぐべき男子の存在。しかも吉継様は一介の侍ではなく、敦賀五万七千石のお大名なのでございます。その子を生すべき女が、一人もいらっしゃらないとは。
 驚いた私がその事を申しますと、
「跡取りはいらっしゃる。御一族より養子をとられたのだ」
 前田様はなぜか痛ましげにお顔を曇らせ、そうおっしゃいました。
 本当は私は、なぜ吉継様はお顔にあんな布を巻いておられるのか、その下の素顔はどうなっているのか興味津々で、その事をお尋ねしたかったのでございますが、前田様の臥せったお顔を見るとその事を口にするのは憚られ、尋ねる事はできませんでした。
 そんなこんなで二月ばかりが経った、ある日の事でございます。その頃私も、どうにか仕事に慣れ始めた頃でございました。けれど「人間物事に慣れ始めた時に思わぬ失敗をするもの」と申します。私も、自分で意識せぬうちにどこか慢心が生じていたのでございましょう。その言葉は、私にも例外ではなかったのでございます――。
 私は洗濯して畳まれた、吉継様のお着物を両手に抱え、廊下を歩いておりました。これを吉継様のお部屋にお届けするためでございました。
 普通お屋形様ともなれば、お召しかえなど、御自分は立ったまま女中らにさせるものでございます。けれど吉継様は全て一人でなされておりました。ですから私は、このお着物を部屋に持って行き置いて来るだけで事が済みます。
 私は寒い廊下を歩きつつ、自分の両手に抱えられたお着物に、ふと目を落としました。その一番上にのっていたのは、まるで包帯の様な、細長い晒しの布でございました。
 私はあれ以後もまだ、なぜ吉継様がお顔にこの様な布を巻かれているのか、その理由を存じませんでした。なぜかと言って、御家中には、その事に触れてはいけない様な雰囲気があったからでございます。前田様もずいぶんお優しい方でございましたが、吉継様のお体の事などに話が及ぶと、途端に顔を曇らせるのでございます。自然吉継様の話題は、禁忌の様になってございました。
 吉継様は、このお顔の布を取り替えるのも、人を遠ざけただお一人でなされておりました。ですからその晒しの布にふと目を落とした時、その一枚の布に、全ての禁忌が集約されている様な、触れてはならぬ謎が秘められている様な、そんな不思議な心持ちになったのでございます。その時身体にぞっと寒気が走ったのも、その日の寒さのせいだけではなかったでしょう。
 ともかく私はとことこと、吉継様の御座所の前までやってまいりました。例の金箔に彩られた大襖の前でございます。私はいつもこの前に来ると、緊張で胸が高鳴りました。黄泉平坂の入口を塞いでいるという、大岩の前に立った様な気分になったものでございます。この時もそうでございました――。
「失礼いたします。千代にございます――」
 私はその大岩ならぬ大襖の前に座り、そう呼ばわりました。しばらく待ってみても何の返事もございません。そこで私は大襖に手を掛け、するすると静かに開きました。
 中を覗くとしんと暗く静まって、何の気配もいたしません。私はほっと安堵のため息をつき、静かに室内に足を踏み入れました。足元の畳が軋まぬ様に注意しながら――。小さな物音一つでも、それが何か良からぬ事を呼び寄せそうな気がしたのでございます。この頃の私は、それほど吉継様を恐れておりました。
 この部屋はいつ来ても香の香りがいたしました。その時は焚かれておりませんでしたが、もう部屋全体に香りが染み込んでいるのでしょう。部屋の隅にお着替えをきちんと置き、さて立ち去ろうとした時でございます。思わぬ事に、障子一つ隔てた隣室より、
 しゅるり……
 という幽かな衣擦れの音が聞こえてまいりました。
(誰か、いる……!)
 私は思わず身を固くして、隣室に耳を傾けました。
 見れば障子がわずかに開いており、その隙間より確かに人影らしいものが動いているのが分かりました。迂闊にも、私はそれまで全くそちらに気がつきませんでしたが、向こうもまたこちらに気がついていない様でした。しかしここに居られる方といえば、無論それは吉継様以外にあり得ません。
 後から知った事でございますが、この時すでに吉継様のお耳はかなり遠くなっていた――この時吉継様はまだ三十一才の若さでございましたが――との事。そのためにこちらの気配に気づかれなかったのでございましょう。
 私はどきんとと胸を衝かれる思いがすると共に、そぞろ気をそそる様な誘惑を感じてございました。要するに隣室を、その中で何が行われているのか、覗いてみたくなったのでございます。
 私は、はしたないと思いつつ、息を殺して物音をたてぬ様、障子の際までにじり寄りました。ひょいと目だけを出して中を覗き込んだ時、私ははっと息を呑みました。そこには一人の男の方が、向こうを向いて座して居られたのでございます。
 紛れもなく吉継様でございました。しかも吉継様はその頭の布に手を掛けられ、今しもするするとそれを解かれているところだったのでございます。後から思えば、それは新しい布と取り替えようとなさっていた時だったのでございましょう。けれどその時には、そんな事はどうでもよい事でございました。最早、はしたない、という思いすらどこかに消し飛び、ただただまるで釘付けになった様に、私は吉継様の後頭部を凝視し続けていたのでございます。
 吉継様がすっかり布を解かれた時、我知らず呼吸をとめていた私は、
「ほっ……」
 と、ちょっとばかり大きな息を吐きました。
 その時でございます――。
 ああ、今こうして思い返すだけでも、少しばかり身震いがいたします。あの様に恐ろしい思いをしたのは生まれて初めて――、いえそれ以後も、今このような歳になるまで、あれほど肝を潰した事はなかった様に思います。
 吉継様はその小さなため息を聞き漏らさず、突然ぐるりと首を回してこちらを見たのでございます。逃げ隠れする暇もございませんでした。けれど本当のところ、「逃げよう」という気力さえ消し飛んでいたのでございます。
 吉継様のそのお顔! あれほど興味をそそられ、見てみたいと思っていたその素顔が、今眼前にございました。けれどそれは、私の想像をはるかに超えたものでございました。こうして直に向き合っているのにもかかわらず、その表情が全く分からないのでございます――。
 吉継様のお顔は、全体が浮き上がった瘤の様な腫れ物に覆われてございました。鼻は溶けかかった様にずるりと曲がっております。しかもところどころその瘤が破け膿が滴れ、嫌な臭気さえ放っておりました。話に聞く、黄泉に蠢く亡者が地に蘇ったか、とさえ思いました。
(鬼っ!)
 と、おののきながら心中で叫びを上げた時、爛々と光る、例の血に濁った吉継様の瞳が、私をぎらりと突き刺しました。その空洞の様な口をぽっかりと開けて、
「千代かっ!」
 と一喝なされ、身を起しつつお腰の物を抜き打ちなされようとした時、私は本当に気を失っておりました――。
 ――目を覚ましました時、私は薄暗く揺れる光の中に居りました。どうやら布団の中に横になっている様でございました。
(暖かい……)
 ぼうっとする頭で私はそんな事を思いました。掛けられた布団が心地好く、行灯の光に照らされて揺れている天井を眺めていると、まるでふわふわと飛んでいる様な心地でございました。
 その時、はっと頭に最前の風景が蘇ってまいりました。私はぱっと布団を払いのけ、その上に飛び起きました。
 私は素早く身体中を摩り撫でました。けれど今身体中を調べてみても何ともございませんし、痛みも全くございませんでした。
 気を取り直して辺りを見回してみますと、そこは私の部屋でございました。いつもと何の変りもございません。時刻はもう真夜中の様でございました。私は布団の上に座ったまま、私をここまで運んでくれたのが誰なのか、なぜ吉継様は私を斬らなかったのか、いえそれ以前、あれはまことに現だったのか、などと取り留めのない事を長い間考えておりました。けれど結局、何の答えも出す事はできませんでした。
 以来私はますます吉継様を恐れ避ける様になりました。特に吉継様の御座所には、余程の事がなければ近付かない様にいたしておりました。けれど吉継様の方は相変わらずのご様子でございました。何事もなかったかの様に例の晒しの布をお顔に巻かれ、たまたま顔を合わせる様な機会があっても何もおっしゃられず、もちろん斬り掛かる様な真似もなさいません。ただ、ちらりとこちらを見ても無視するが如く通り過ぎられるのみでございました。
 私はこの話を誰にもしませんでした。御家老衆のお一人、前田様は家内の責任者でもあり、よく顔を合わせ心安くしていただいておりましたが、その前田様にもこの話はできませんでした。御主君の着替えを覗き見するなどそれだけで不徳義の誹りを免れませんし、あまつさえあの様なお顔を見てしまったというのは、それを口外すればもっと悪い事を呼び寄せそうな気がしたのでございます。



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