「大刑」第四話 刑部少輔@たか先生作

 翌日私は仕事の合間を見つけて、例の四阿へと向かいました。また吉継様がそこに居られるのではないか、と思ったのでございます。
 本当は、吉継様に合せる顔がない、という思いだったのでございますが、一言なりともお詫びをしたかったのでございます。
 吉継様はいらっしゃいました。あの時と同じに、鳥と遊んでおられました。私は吉継様に近付くと、
「お屋形様……」
 と声を掛けました。
「千代か――」
 吉継様はこちらから声を掛けるという無礼に怒りもせず、そう呟くとまた俯いてしまわれました。
 私はちょっとためらいましたが、意を決してお側に寄りました。吉継様は何も言わず、鳥の餌を私の手に与えようとなさいました。けれど私は笑って受け取らず、懐から小さな包みを取り出しました。その中には生米が包まれておりました。
「用意のいい事だな」
 それを見て吉継様はちょっと笑われた様でございました。お顔が晒しに包まれているせいでその変化は分からないのですが、嗄れた声の中にそんなお気持ちが読み取れたのでございます。
「はい!」
 私は威勢よく答え、吉継様の隣で鳥に餌を投げ与え始めました。
 しばらく黙ってそうしておりました。「早くお詫びを申し上げねば」とは思うのですが、なかなかその事を口にできません。
 私は緊張に身を固くし、それでもついに意を決し、吉継様に、吉継様のお噂の事、自分がその噂にのせられ疑念を抱いていた事、そしてその無礼に対するお詫びを、幾度も頭を下げ申し上げました。
 吉継様はそれを最後まで、例の充血した笑わぬ瞳でじっと見詰めながら聞いておられました。
「それで終わりか?」
 私が頭を下げたまま黙り込むと、吉継様はそうお尋ねになりました。私は下を向いたまま、こくんと一つ点頭いたしました。すると吉継様は急に笑い声をお上げになり、
「千代、律義な事だ」
 と仰せになりました。
「我が城下・家中を問わず、数多者共は俺を物の怪呼ばわりしているそうだが、それを直接俺に謝りに来たのはお前が初めてだ。なかなか面白き女だな、お前は。――だが、斯様な事を申すとは、手討ちになるべき覚悟ができているのか?」
 このお尋ねには、さすがに私も首をすくめました。
 吉継様は私の首をすくめた様がおかしかったのか、再び笑い声を上げられ、
「ははは……。直接謝りに来た、お前のその勇気に免じて手討ちは勘弁してやろう。――それに俺はそんな事には慣れている。先年も大坂でこんな事があったぞ――」
 とある物語を始められました。
 先年、舞台はできたばかりの大坂城、山里丸の数寄屋での事だったそうにございます――。
 関白殿下がそこで茶会を催しになられ、吉継様も招かれました。亭主は無論関白殿下、居並ぶ客は天下の大小名で、また茶の宗匠として千利休様も御臨席なされ、それは壮観であった事でございましょう。
 この日は関白殿下の御前、しかも周りのお歴々も吉継様より分限の大きい方が多かったそうで、吉継様もいつも巻かれている晒しをしておられなかったそうにございます。
 いよいよ席次も決まりそれに腰を掛けても、まだ誰も吉継様と目を合わせる人はございませんでした。みな哀れむが如き顔付きで俯いております。けれどそれでいて、吉継様は痛いほどに自分に向けられる視線を感じられたそうにございます。吉継様がその視線の方に目を向けられると、その視線の主は慌ててそっぽを向き知らん顔をする。今度は別の視線がじっとその様子を見ているのを感じる。そんな事が繰り返されたそうにございます。
 吉継様がおっしゃられるには、いつも晒しが巻かれている下に隠されているその顔――醜く解けかかったその顔は、物珍しく皆のよい座興になったのであろう、との事でございました。
 吉継様は黙ってこの視線に耐えられました。けれどその心情は、当然の事ながら決して愉快ではなかったでございましょう。
 やがて茶会が始まり、点てられた茶が客の間を回り始めました。私は茶会というものがどんなものなのかよく存じませんが、吉継様のお話によると、主人が点てた一杯の茶を客が順々に回し飲みして行くのだそうでございます。茶碗はやがて、吉継様の元に回ってまいりました――。
 吉継様は作法通りに茶碗を回し、こくりと一口茶を飲み、隣のお人に茶碗を渡されました。そのお人はお奉行の一人だったそうでございますが、渡された茶碗に目を落としちょっと困った様な顔をされました。茶碗を両手で正座した膝の上に抱え、じっとしておられます。しばらくそうしておりましたが、無論いつまでもそのままでいられるはずもございません。声をあげる方こそいらっしゃいませんでしたが、皆の耳目がそのお人に集中しているのは明らかでございました。
 やがてそのお人は意を決した様に茶碗を持ち上げ、胸元でそれを回し、やがて顔の前にそれを持って来て口をつけられました。そうしてから何事もなかった様に、茶碗を次の人に渡されました。けれど、吉継様にはそのお人が、実は一滴も茶を飲んでいない事がはっきりと分かりました。いえ、それは誰の目にも明らかだったでございましょう。けれど皆見て見ぬ振りをして、その無作法を咎める者はありませんでした。
 吉継様の御病気が伝染る病だという事は皆知っております。それで吉継様が口をつけた茶を回し飲みする事を嫌ったのでございましょう。それは吉継様にも分からぬ事はなかったそうでございます。けれどやはりそのお心が深く傷つけられた事に変りはございませんでした。吉継様は誇り高きお方でございましたから――。それに、実際この程度の事では病が伝染る事はなかったのでございますから――。
 茶碗はそれからも、次々と皆様方の間を回って行きます。けれど誰も実際にその茶を飲んでいる者はおりません。皆最前のお方の真似をして、飲む振りをされているだけでございました。誰も声を出す者もなく、吉継様も俯かれたままで、無言の内にこの茶番劇は進行してまいりました。
 やがて茶碗は末座に控えられた、まだ二十代の、お若いお武家様がお受け取りになられました。額の広い、俗に言う才槌頭の利発そうなお顔をなされた方であったそうにございます。この若さで――吉継様と同じく――関白殿下の側近をお務めになられているお方でございました。
 石田治部少輔三成様でございました。
 治部少輔様は両手で胸元に茶碗を持ちますと、厳しく、その才気走った瞳で一同をじろりと眺め渡しました。それからその茶碗を静かに口元へ持って行ったのでございます。
「佐吉めは……」
 私にこのお話をされていた吉継様は、この段に来るとそう笑いながら仰せられました。「佐吉」とは、石田治部少輔様の御幼名にございます。このお二人は「佐吉」「紀之介」と、幼名で呼び合う仲でございました。
 この時の笑いにしても、いつもの皮肉めいた調子は微塵もなく、心より愉快そうにお笑いになるのでございました。吉継様は笑いながら、お話しを続けられました。
「――茶を、全て飲み干しおったわ」
 治部少輔様は、まだ茶碗の中になみなみと残っていた茶を、息もつかずに、一滴残さず飲み干してしまわれました。それから静かに茶碗を御自分の前に置かれると、再び例の糾弾する様な瞳で一同を眺め渡したそうにございます。御一同は皆俯くかそっぽを向くか、誰一人面を合わそうとする者はなかったそうでございます。
「俺はこの時誓ったのだ――」
 再び吉継様が私に仰せられました。
「佐吉のためであれば、命はいらんと。奴は真の友垣だ。いつか奴に俺の命をくれてやるつもりでいる」
 私はこれを聞いた時、わずかに微笑しておりました。
(本気かしら……?)
 と思いました。人は、いくら友のためとは申せ、他人のためにそう簡単に死ねるものでしょうか? やはり吉継様は、子供がそのまま大人になられた様なお方だ、と思ったのでございます。
 いえ、決して馬鹿にした訳ではございません。が、世の中は利害で動くものではないでしょうか? けれど、真面にこういう事を言える吉継様の純粋さ・純真さに、非常に暖かい、春風が吹き抜けた様な気持ちにさせられた事は確かでございました。
 ――こうして吉継様と私とは、度々物語をする様になって行きました。吉継様も御政務を離れた、他愛もない話ができる相手を欲していらしたのでございましょう。一種近付き難い雰囲気を持った吉継様は、家中の士の中にはその様な話ができる人がいない様でございました。唯一、御家老衆の前田様とは時に私的なお話しもされる様でございましたが。けれど前田様は御謹直なお方でしたゆえ、御主君なる方と他愛もない世間話などは、やはりなかなかできかねる様でございました。そういう訳で吉継様は私を重宝に思し召されていたのでしょう。
 吉継様が私にお声をかけられるのは、やはりあの四阿が多うございました。ある時吉継様は、こう仰せになりました。
「今でこそ俺もこうして一城の主だが、元々はそなたの父と変わらぬ郷士であった。いや侍とも言えぬ、百姓の出であった――」
 吉継様は私に身の上話をなさいました。幼い頃より遊ぶ暇もなく、一人前の者として田畑を耕さねばならなかった事。食うや食わずの生活で辛酸を嘗めた事。ついに故郷を飛び出し諸国を遍歴した苦労など。
「けれど今より一つ良い事があったわ。それはまだこの厭らしき病が我が身に忍び寄っていなかった事だ」
 吉継様がこの癩の病に侵されたのは、二十歳の時だったそうでございます。その頃はすでに関白殿下の御近習であらせられたそうでございます。
「上様(豊臣秀吉の事)に初めてお会いしたのが十六の時であった。その頃俺は近江長浜に居ってな。当時は今浜という地名であったが、その頃故右大臣家(織田信長の事)の部将であった上様が初めてこの地に城を与えられ、その時に上様が長浜と改名されたのだ。同時に上様は広く人をも求められ、俺もその目に留まる幸運に与ったという訳だ。――何、俺の様な下賤の者が、何故上様の目に留まったか、その訳を知りたいか? それもな、佐吉のおかげよ――」
 そこまで話すと、吉継様は往時を思い出される様に、遠くを見詰められました。
「当時流浪してたまたまその地に足を留めていた俺は、そこで佐吉と知り合った。同じ年頃であった俺達は、すぐに意気投合してな。友垣となった。佐吉の家もさして大きくない郷士の家で、奴自身は近くの寺に預けられておった。その頃、たまたま領主であられた上様が領内を巡検される事があり、その寺で御休息をとられたのだ。その上様の接待をしたのが佐吉で、すぐに頭の回転の速さがお目に留まった。それでお取り立てになる事になった訳だな。御近習に取り立てられた佐吉は、俺を上様に推挙してくれた。当時新たに城主となり人手の足りなかった上様は、すぐに俺も召し抱えて下さったのだ」
 私はこれを聞き、吉継様の石田治部少輔様に対するお気持ちの深さが、少しだけ理解できた様な心持ちがいたしました。すると、そういう私の顔を見て、吉継様は少し慌てた様に付け加えられました。
「いや、何もそういう利害によって『友垣だ』と言っている訳ではないぞ。奴との仲はそんなものではないのだ。それに第一、上様だって俺の力を認めて下さっている。かつて上様が仰せられた事があった。『紀之介には将才がある。あれに百万の軍勢の軍配を振らせてみたい』とな。によって、大名にまで取り立てて頂いた」
 最後の方は、やや誇る様に仰せでありました。私は微笑み、黙ってうなずいておりました。
 それは、決して治部少輔様の口添えによってのみ取り立てられた訳ではない、という事を強調されたかった御様子でした。無論私も、それは重々承知している事でございました。
 けれど吉継様のおかしさは、自らに将才があると信じきり、それを誇りになされているところでございました。何しろ吉継様は、百万の軍勢どころか未だ一軍の将として戦場に立たれた事などなかったのでございますから――。吉継様が取り立てられたのは、むしろ吏官としての才能を買われたためだと聞いております。
 関白殿下のお噂は、私もつとに耳にしておりました。人たらしの名人、というものでございます。吉継様の様な、容易に人にお心を見せないお方をこれほどまで掴んでしまわれているのを見て、あらためてその噂の真実を知った気がいたしました。
 この時私は、何よりも将才を尊ぶ吉継様の気風を可愛らしく思うと同時に、
(こんなに子供っぽく純粋な方に、戦の差配などできるものかしら……?)
 との思いも持ったのでございました。



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