「大刑」第六話(最終話) 刑部少輔@たか先生作

 その年の冬。まだ雪の降り積もる前に、私はお暇を頂き城下の実家へと戻る事に相成りました。まさかお城から直接輿入れする事もできますぬゆえ、その準備など、やらねばならない小用が色々あったのでございます。
 あれ以来、吉継様が私を呼ばれる事は、全くなくなってございました。多分他家に輿入れが決まった娘を、何事も無いとはいえ、御座所に召す事ははばかられたのでございましょう。御謹直な吉継様らしい事でございました。
 ――と、そうなってみると、吉継様は御政務の時以外、ほとんどお部屋から出られる事もありませんでしたので、そのお姿を、遠くからさえお見かけする事はなくなっていました。まさか用もなくこちらから御座所に出向く訳にもいかず、そうこうする内とうとう私がお城を辞する日がやって来てしまったのでございます。遂にその日まで、吉継様は二度と私の前にお姿をお見せになる事はありませんでした。他家に嫁ぎその奥に入る以上、最早今日以降、吉継様とお会いできる事はなくなるでしょう。
 まとめた身の回りの品は行李に三つばかりになりましたが、これは足軽の者が運んでくれる手筈になっております。支度を済ませ、お城の大手門前まで出て空を見上げますと、北陸の冬特有の、どんよりとした曇り空でございました。その時の私の心の様、と申せば、あまりに俗に過ぎるでございましょうか。
 私はその空を見上げつつ、四年前、このお城に初めてやってきた時の事を思っていました。あの時もこんな風に空が曇り、肌寒く水っぽい雪を降らせていたものでございます。あの時の私はお城に上がり吉継様の元に行く緊張で、心を暗くさせていたものでございますが、今お城を去る私も、別な理由とは申せやはり同じ様な心持ちだったのでございます。
 そんな私に、一人の男の方が声を掛けて来ました。
「千代殿が居られなくなると寂しくなるなあ」
 お城にいる間に知り合った家中の御老人でございました。この日はお役目中に仲良くなった家中の方が五人ばかり、門前まで見送りに来てくれていたのでございます。
「まこと――。再び城内がむさくるしいばかりになる」
 と、これは先程よりやや年若な方が微笑されつつややおどけた風に言われました。
 私も黙ってそれに微笑み返しておりましたが、その面々の中には私の夫になられるはずの前田様のお顔はございませんでした。前田様が城内にいらっしゃるのは間違いないのでございますから、いくら御政務中とは申せちょっとばかりお顔を見せてくれてもよいのに、などと思った事を覚えております。――まあ今考えてみれば、我が夫殿は謹直な人柄でございましたから、見送りに来るなど恥ずかしく、照れていたのでございましょう。
 そして――。当然の如く、そこにはお屋形様――吉継様のお姿はございませんでした。
 私の様な一女中がお暇を取るからといって、一々お屋形様ともあろうお方が見送りに出られるなど無論有り得べき事ではございません。けれど、吉継様と私とは、何か特別な様な気がしていたのでございます。もし最後に対面がかなうならば、どの様なご挨拶をしようかなどとも考えていたのでございました。
「あの……。お屋形様はどうしておられましょう?」
 私の問いに御一同はちょっと顔を見合わせ、それから中で一番の御老人がこう言われました。
「そう言えば……。今日は御政務にも姿を見せられていないと聞く。お加減よろしからず、御座所にて御休息されておられるのではないか」
「そうでございますか……」
 私のその呟きが、余程気落ちしている風に聞こえたのでございましょうか。その御老人は、
「まあ、殿に名残尽きぬのは分かるが……。お前様も来春には他人の女房となられる身。早う殿との事は忘れたが良い」
 とちょっと暈けた慰めをして下さいました。御家中の方の多くが、私と吉継様の仲を勘違いしていた様ですから、それも仕方がなかったかも知れません。
 私はそれを真面目に否定するのも馬鹿馬鹿しく、お見送りの御一同にお礼と挨拶を済ませ、四年の風月を共にしたお城を後にしたのでございました。
 今日は女駕籠に乗り、荷物持ちの足軽を二人ばかり引き連れて城下の大路を行く気分は、率直に言って悪いものではございませんでした。私どもの一行が通りかかりますと、人々の何割かは、
(おや――)
 という風にこちらを仰いでおります。どこぞの上士の奥方か、と思っていたのかも知れません。
 私もまだ若い娘でございましたから、この様な注視を受けるというのは、少しばかり心地好いものでございました。また城下を抜ける頃には雲も晴れ陽が射し始め、この季節には珍しいほど暖かい陽気になってございました。それもまた慰めとなり、最前までの打ち沈んだ心持ちを段々と薄らがせてくれたのでございます。
 相変わらず私の実家は城下を抜けた町外れにございました。町を抜け、石ころの多い道になりますと、人通りもぱたりと途絶え、野中を私どもの一行だけが進んで行く格好になりました。時々遠くで農夫らしい者どもの動く姿なども見えたのでございますが、こちらに近付く者はありませんでした。
 その日は段々と陽射しが強まり、簾を下ろしていると駕籠の中は暑いくらいでございました。人目がなくなったのをいい事に、足軽に命じて簾を巻き上げさせました。微かな風が吹き込むと、さすがに冬の風は冷とうございましたが、火照った頬にはかえって心地好いものでございました。
 簾を開けた事により、今までの暗い世界から、ぱっと視界が開けました。それは心まで解き放たれる様で、私はああっ、と伸びをしたい様な気分になりました。その時でございます。
 駕籠の簾を開けた側――つまり左手の遠く先に、ちょっと小高くなった丘がございました。その丘のてっぺんに一本の松が立っており、その根方に一人の男が座っておりました。
 かなり遠くでございましたので、詳しい様子は分かりません。初め私は旅人が休んでいるのかと思いましたが、その男はこちらに気づくと、座っていた石の上からゆるゆると身を起しました。老人ででもあるのか片手に杖を持ち、その杖に身体を預ける様にしてようやく立ち上がったのでございました。その時私は気づいたのでございます。その人のお顔が異常に白い事に――。
 人の顔色ではございません。それは晒しの布の色だったのでございます。杖をついて立ち上がった男の方の姿。それは吉継様でございました――。
 吉継様はただ黙って、右手につかれた杖に心持ち体重をかけながら、こちらを御覧になっておられました。いえ、その両眼はほとんど光を失っておられたのですから、こちらが見えていたとは思えません。よく見ると、その背後、やや下がった所に供の者の姿が一人、畏まっているのが分かりました。その供の者が、こちらが通る事を吉継様にお知らしたのでございましょう。
 この冬空の下、寒風吹く中をその御病身を押して、吉継様は来て下さったのでございます。見えない瞳ながら、それでも一目、お見送りに来て下さったのでございます。御領主の身でありながら――。しかもこちらには一言も知らせずに。たまたま簾を上げさせていなければ、私は吉継様に気がつく事さえなかったでしょう。――吉継様はそういうお方でございました。
 なぜに人は、この慈悲深く領民思いの御領主様を、物の怪などと恐れ嘲るのでございましょうか。ただ病に侵されている、醜き外見である、の一事をもって……。私は、たとえ他人が物の怪と呼ぼうとも、武勇なぞ無くとも、そんな事は片々たる些事に過ぎぬと、その時有り難く、しみじみ思ったのでございます。
 私は丘の上にじっと動かずこちらを見下ろしている吉継様に、そっと両手を合わせておりました。――そして、私が吉継様の姿を見たのは、生涯これが最後になったのでございます……。


 附記
 これより五年後の慶長三年(西暦一五九八年)夏、太閤豊臣秀吉は六十三年の生涯を閉じた。諸将は秀吉の遺児――秀頼に忠誠を示す誓紙をかねてより差し出していたが、内大臣徳川家康はこれを反故にしかねぬ専横の振る舞いを見せ始め、天下取りの野望さえ窺えた。これに対し故太閤の側近だった治部少輔石田三成は激しい糾弾を繰り返す。ここに、いったん定まったかに見えた天下は、再び動乱の予兆を孕み始めた。
 遂に慶長五年(西暦一六〇〇年)六月、この胎動は頂点に達し、中納言上杉景勝は三成と通じて家康に挑戦状を叩きつけ、家康も諸大名を率い会津へ上杉討伐に向かう。大坂が空になったのを見た三成は、かねての手筈通り大坂にて挙兵した。青史に名高い天下分け目、関ヶ原合戦の勃発である――。
 この頃刑部少輔大谷吉継は家康と近しく、この時も上杉討伐の命を受け、病身を押して自ら越前敦賀より出陣して来ていた。近江まで来た時、佐和山城にて当時まだ挙兵していなかった三成と面会する。ここで初めて吉継は三成より反家康の挙兵計画を知らされ、協力を要請される。驚いた吉継は必死にとめるが、自らに絶対の自信を持つ三成は、その言に耳を貸そうとはしなかった。ここに吉継は、勝ち目の無い戦いである事を誰より知りながら、家康を裏切り三成に助力する事を決心する。「佐吉に俺の命を呉れてやる」というかつての言葉通り、友誼に殉じたのである――。
 九月十五日早朝、美濃関ヶ原盆地に一発の銃声が響き渡り、この史上最大の合戦は幕を開けた。関東から引き返して来た東軍(家康軍)約八万、大坂から押し出して来た西軍(三成軍)約十万がここで激突したのである。西軍が数の上でやや優勢であったが、西軍内には密かに寝返りを決している大名も多く、実数は三分の一ほどであった。この内吉継が直接率いる軍勢は二千ほどに過ぎない。
 この日吉継は、男共に担がせた板輿の上に乗っていた。腫瘍に侵された皮膚が、馬に乗る事さえ耐えられなかったためである。視力は全く失われ、顔には白い晒しを巻き、兜は被らず頬当てだけをしていた。鎧を身につける事もできず、白い着物の上に墨で鎧の模様を描いた物を着用していた。この様な状態でありながら、吉継は自ら最前線で采配を握っていた。
 吉継の前面の敵は藤堂・京極・寺沢勢ら三倍に近かったが、吉継は開戦と同時にこの多勢へ突撃を開始し、見事な采配で何度かこの多勢を追い散らすほどの戦いを長時間にわたって続けた。――だが正午過ぎ、大谷勢を、天地を覆すほどの衝撃が襲った。味方のはずの金吾小早川秀秋軍一万五千が突如寝返り、松尾山上から殺到したのである――。
 藤堂・京極勢らを追撃するために陣形の伸び切っていた大谷勢は、その側面を突かれた。自分の十倍近い軍勢が、しかも山上という高所から攻め下ろして来たならば、本来ならこの時点で壊滅していて不思議ではない。だがあらかじめこの事あるを予想していた吉継は、素早く軍勢をまとめ、反対に秀秋軍に襲いかかったのである。
 吉継勢は朝よりの激戦で疲れ切っていたはずである。反対に秀秋勢は今まで戦場を傍観し、休息十分のはずであった。だが何と吉継はこの軍勢を一陣・二陣と破り去り、さらに本陣にまで襲いかかり、これを五丁も退却させた。
 吉継はこの時自らの輿を敵陣にまで乗り入れさせ兵を叱咤し、
「死ねや、死ねや」
 という颪風の様な声が戦慄となり戦場を切り裂いたと言う。小早川秀秋はまだ十八才の青年だったが、この時のあまりの恐ろしさが忘れられず、戦後悪夢に毎夜うなされ、ほどなく狂死した。吉継のこの凄まじい采配振りには家康さえ恐怖した。ここで秀秋勢が壊滅すれば、東軍全体が敗北しかねないからである。
 だが遂に終わりは来る。吉継の指揮下にあった脇坂・朽木・赤座・小川等の諸隊が、秀秋に引き続いて裏切ったのである。さしもの吉継もこの雲霞の様な大軍に突き崩され、手負いの猛獣を殺す様に遠巻きに矢を射掛けられ、遂にその中に解き消えた。吉継は切腹して果てたが、その病に侵された首は遂に見つからなかった。享年四十二。
 ――刑部少輔大谷吉継は生涯最初で最後の戦場に「天下分け目」という大舞台を得、そこで明滅した将星達の中で誰よりも光芒を放ち、戦後、関ヶ原合戦史上最大の名将と謳われ、神話の中に飛び立った。

 この時大谷家の家臣達は、高名な勇士――湯浅五助を初めとしほとんど討ち死にしたが、その中に家老前田某の名も見える。またこの前田某の妻は、その後独り身を通し様々な流転があったが晩年江戸城大奥へ女中として入った。一夜、三代将軍家光の乳母お福が、伝説の勇将――大谷刑部少輔の女中であったと言うこの女にその話を求め、それに応じて昔日の敦賀での事共を語ったと言うが定かではない……。



メール 刑部少輔@たか先生にファンレターをだそう!!