臥龍桜 1 龍華成先生作

昔、この地方がまだ美濃や尾張と呼ばれていた頃、その国境に一本の桜があった。
臥龍桜と呼ばれる、樹齢はゆうに百年を超えていそうな、大層立派な山桜だった。
その桜は何年かに一度気まぐれに、真紅の花弁の花を咲かせることで有名だった。
桜は近くで大きな戦があると、翌年の春には決まって真っ赤な花を咲かせたので、
人々は、戦で死んだ者の怨念がこもった血を吸って咲いているからだ、と噂した。
だが誰も気味悪がりはせず、紅い花が咲くと、供養を兼ねて花見を盛大に開いた。
人が死んだ時「あまり嘆くと死んだ人がこの世に未練を残して成仏出来なくなる」
と、信じられていたからだ。この妖樹の噂は遠く京の都にも伝わっていたと云う。
人々は知らなかったであろうが、数百年の時を経、この樹には魂が宿る様になった。
心を持ち、人の言葉を解し、時には疲れた旅人の傘となり、村人たちの集いの場と
なり、稀ではあったが、臥龍の言葉を解す者とは共に語り、時には戦へ赴く男達を
見送り、家族と共に、その無事を祈った。臥龍は人々を愛しく思っていた。しかし、
戦でなくとも時が経てば彼らは臥龍をひとり地上に残し、死んでしまうのだった。
もう何度紅い花をつけたことだろう、何度人々の葬送の列を見送ったことだろう。
臥龍も時が経てば、彼らの居るところに往けるのだと信じていた。だが、それが
何時なのかは分らなかった。桜はまだ「死」をはっきりとは分かっていなかった。
人が死ぬのはいかにも恐ろしいことのように思われた。しかし、己に訪れる「死」
は少しも恐ろしくはなかった。いつだったか、行きがかった傀儡子が言っていた。
「人は、刻々と死んでいるのだよ」
この頃にはまだないが、染井吉野が七、八十年、山桜は数百年の樹命と言われる。
臥龍桜は、段々と朽ち始めた我が身に「死」が迫るのを感じていた。
しかし「死」は臥龍を魅きつけて止まず、逆に歓迎すべきものである様に思えた。
臥龍の元に死神が闇い影を落としていた。まさに臥龍の命は尽きようとしていた。
しかし。
ある日突然、一人の人間が、臥龍を美しい死神の前から連れ去ってしまったのだ。

少年がいた。
漆黒の馬を駆ってやって来ては、臥龍の周りをくるくると回り、ある所で止まる。
春だけでなく、例え冬枯れして雪が降っていても、やって来て同じ事を繰り返す。
なのに止まるのはいつも同じ場所だった。そして、臥龍をじっと見上げるのである。
ため息をつくでもなく、うっとりするでもなく、ぎらぎらした瞳で見つめていた。
いつだったか「俺は天下を取るぞ!」と自分に叫んでいった青年によく似ていた。
一年以上も来ないかと思えば、ひと月と間をおかずに、通ってくることもあった。
その少年と初めて逢ったのは、珍しく二年続けて紅い花をつけた、その翌年の事。
薄暮に横たわる森に浮かび上がる臥龍は、えもいわれぬ艶やかさを漂わせていた。
今が盛りと咲き誇った花々が、東風に誘われるまま次々と空に吸い込まれていく。
そんな花吹雪の中を、森の暗闇から抜け出してきた様な青馬が、駆け抜けてきた。
馬は桜の前で止まった。一体何処から駆けてきたのか、体から湯気が昇っている。
すると、馬の上から真っ赤な塊が転げ落ちた。いや、正確に言えば、飛び降りた。
それは、臥龍が咲かせるのと変わらぬ程、鮮やかな紅い着物を纏った少年だった。
袴もはかず、髪も風に乱されるまま。まるで森から小鬼が現れたかのようだった。
しかし、美しい鬼だった。髷を結う黒髪は豊かで、乱れた髪の掛る肌は雪の様に
白く、スッと通った鼻筋に、きりりと上がった眉、少し薄い唇、そして何よりも、
澄んだ瞳をしていた。臥龍はぽつりと漏らした。
「鬼だ・・・・・・」
小鬼はスゥと目を細めた。一寸の隙も無く、すっくと立ち、辺りの気配を窺った。
しかし、声の主は見当たらない。
「誰か」
彼の瞳のように澄んだ、凛とした声だった。勿論彼の誰何の声には誰も応えない。
「こなたか?」
彼は臥龍の方に向き直った。臥龍は驚いた。樹が言葉を話すと思う人間がいるとは。
「いかにも・・・・・・・」
小鬼は少しも臆する事無く、臥龍に対面した。逆に臥龍の方が気圧されてしまう。
「こなた、鬼を見たことがあるのか」
「いや、ない」
「では、何故鬼だと」
「・・・・・・・人と違う。お前は美しい」
「・・・・・・・」
風がざっと吹き抜け、臥龍の白い花を攫って行った。花瓣は小鬼の足元に積った。
「それに・・・・それにお前には私の声が聞こえる」
「だから何だ」
「何故驚かぬ、私が怖くは無いのか」
「こなたに何が出来る、俺を殺すか」
彼は笑った。
「死より怖いものはない。樹が口を利いたとて、何が恐ろしい。己が目で見たもの
ならば信じるまでだ」
突然、一陣の風が吹き抜けたように、臥龍は枝を震わせた。また、花びらが少年に
降り積もった。少年は眉をひそめた。
「何だ、笑うておるのか?」
臥龍は笑ったのではなかった。突然自分を襲った「生への情熱」に体が震えたのだ。
臥龍は思ってしまった。この少年の行く末を見届けたい。それまでは死ねないと。
臥龍がそう言うと、少年は微笑った。
「阿呆・・・・」



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