臥龍桜 3 龍華成先生作

十数年が経ち、美濃が織田信長の手中に落ちると、辺りで戦は起こらなくなった。
自然、臥龍は紅い花を咲かせなくなり、臥龍の周りでは穏かな日々が過ぎていった。
しかし、その一方で三助は戦場での日々に追われていた。血の匂いを洗い流す間も
無く、また戦場へと赴く。手に残る人を斬った感触が消えぬ間に、また人を斬る。
信じて進んで来た道だけれど、本当にこれでいいのか、不安になる。
ふと、臥龍の姿が目に浮かんだ。
「俺は・・・こなたの紅い花が見たいのだろうか・・・・」
臥龍の面影を振り払い、三助はまた戦場へとその身を投じた。
三助の瞳に宿った狂気は、彼を突き動かす。


その日は風が強かった。
空気が震え、轟々とうなりを上げながら森を揺らしていた。緋縅の鎧を身に纏い、
漆黒の陣羽織を風にはためかせながら、三助は珍しくゆるゆる馬を進めやってきた。
俯いたまま、まるで居眠りでもしているかのように三助の身体は左右に揺れていた。
「また、やつれたな・・・・」
「うん・・・・」
馬を降りた三助に臥龍がそう言うと、三助は疲れているのか、気のない返事をした。
三助はここ数年、大きな戦の度に、憔悴しきった様子でやってくることが多かった。
三助は自分からは何も話さないから、後で、臥龍は旅人や商人たちの話しを聞いて、
戦があったことを知るのだが、最近は三助の顔を見るだけで、戦があったかどうか
分かるようになった。やつれ方があまりにも酷いので、痛々しくて見ていられない。
それが、あの織田信長の命令かと思うと、臥龍は胸をかきむしられる思いだった。
「臥龍よ、人は死ぬと如何なる?」
甲冑を鳴らし、崩れる様に臥龍の胴に体を預けると、三助は突然、ぽつりと言った。
「身体から心が離れ、死人の国へ行くのではないのか」
臥龍は答えた。そう、其処には先に死んでしまった仲の良い村人たちが居るのだと。
そうか、と三助は息を漏らした後、云った。
「人は死ねば土塊になるだけだと、極楽など・・・魂の不滅など無いと、
 俺は思っておった。しかし、其れを信じて止まぬ者もおる」
「退けば地獄、進めば往生・・・か」
長島の一向一揆の事だと臥龍は分かった。打倒、仏敵織田信長、と反信長包囲網の
一翼を担っている一向宗本願寺が、尾張清洲城に近い長島の地で一向宗徒を煽動し、
一揆を起こさせている。戦う者は極楽へ逃げる者は地獄へ。まったく非道い教義だ。
「糞坊主共にいいように扱われておるだけなのだ」
三助は毒づいた。三助の脳裏に鍬や鎌を手に向かってくる一向宗徒達の姿が浮かぶ。
南無阿弥陀仏、と唱えながら目を血走らせ鎌を振り上げてくる。幼い子供までもが
倒れた足軽の首を掻き切る。斬っても斬っても際限なく涌いてきて首を狙ってくる。
だが振り返ればそこに山を築いているのは、鎧さえ身につけていない民の屍だった。
不快なこと極まりない。
武将と太刀を交え、勝利をもぎ取った時の、あの、魂の高ぶるような爽快感は無い。
耳に残る怨念と呪詛の言葉が三助の精神を蝕む。
「何故死が怖くない。何故命を賭けてまで信じられるんだ!?」
振り払うように三助は叫んだ。
「あれ程の意思に遇うと、俺の意思が揺らぐ。死が分からなくなった」
身体を縮こまらせ、引き寄せた膝に顔を埋めた三助の背中が、酷く小さく見えた。
空の紅、炎の紅、血の紅、人の焼ける臭い、硝煙の匂い、場違いに香る甘い鬢の香。
「三助・・・」
血の匂い、臥龍の花瓣の紅。
「何故こなたは紅き花を咲かす?どうしたら紅き花を咲かせることができる?」
「わからない何故紅くなるのか。わたしはあまり好きではない。自分では如何にも
 出来ない。戦があると紅くなるのだ。皆の血を吸って咲いているようで・・・・厭だ」
いや、か。そう呟いて三助は、足元の落ち葉を握り潰した。ゆっくりと指を解くと、
砕けた葉は風に攫われていった。その行方を見つめながら三助はひとり肩を抱いた。
「死んでからこなたの紅になれるなら救われるだろうか」
「何を云っ・・・・」
「死んだらこなたの紅になりたいものだ」
臥龍は戦慄した。魅入られている! 何故!だが往かせない、お前は私の命なのに!
「さん・・す・け・・・・・・?」
震える言葉に臥龍の動揺に気付いたのか、三助は気遣う様にそっと表情を和らげた。
「なに、疲れておるだけよ」
三助は微笑った。
「少し、休ませてくれ」
笑うのさえ辛いとでも言うように、三助は微笑みを消し、臥龍に体をもたせかけた。
導かれるまま、静かに両のまぶたを下ろすと、彼は吸い込まれる様に眠りに落ちた。
自分が人間だったら着物をかけてやる事もできるのだが・・・叶うべくも無い願いに、
口惜しさを噛み締めながら、臥龍はせめてもと、三助の身体に葉を降り積もらせた。
しかし、無情にも、落ち葉の布団は次々と、荒れ狂う風の中に剥がされてしまった。
半時も経たないうちに三助は目を覚ました。がばっと起き上がり、辺りを見渡した。
「臥龍、馬の音がせなんだか?」
「・・・・・・いや、風の音しか聞こえない。お前の馬ではないのか?」
三助の馬は離れたところで草を食んでいる。主人の異変に気付いたのか頭を上げた。
「違う、駆ける音だ。いかんな。臥龍、しばし匿え」
三助はするすると臥龍に登り、その葉々の陰に身を隠した。一体どういう耳なのか、
この風では人と言葉を交わすのすら難しい。
すぐに、三助の言った通り、馬が一騎駆けてきた。後には黒い母衣を背負っている。
「内蔵介か・・・・厄介な奴が来たな」
三助はそう呟いて顔をしかめた。騎馬武者は一直線に臥龍に向かって駆けて来ると、
臥龍の真下で馬を降り、降り掛かる落ち葉を払い退けながら臥龍をきっと見上げた。
「こんなとこ・・・何をしておいでです!織田軍の・・・・・将ともあ・・う方が、陣を抜け
 ・・・・・・なさる!!」
「煩い!俺一人いないくらいで何だ!」
「御屋形!・・れは屁理屈と・・すもの!ひと・・で無防備な!!もう三・・・・頃とは違う
 ・・・・すよ!」
武者の叫びも、荒れ狂う風に掻き飛ばされてしまう。三助はふと真率な顔を見せた。
「・・・・同じさ、あの頃のままだ」
「御屋形・・」
三助の憔悴の原因を知っている武者は、言葉を詰まらせて口惜しそうに眉を寄せた。
「くくく」
三助の漏らした忍び笑いが、この時だけ上手い事風に乗って騎馬武者の耳に届いた。
やられた!という顔をして彼は目を剥いた。上では三助が意地悪そうに笑っている。
「やーい、引っ掛った引っ掛った!ばーかばーか!」
「御屋形ぁ!!自分の御歳をわきまえなされ!!」
叫び、武者は枝に手を掛けた。全くこれが同じ人間か?戦場での面影は微塵も無い。
「さ、お戻りを!」
「厭だ!帰らんぞ!」
逃げようと、更に上の枝に足を踏み変えた途端、突風が吹いて三助の身体が傾いだ。
はっとして武者が腕を広げる。
地に吸い寄せられる様に、宙に浮いた三助の背がゆっくりと近づいて視界に広がる。
まだ来るなと突き放された様に天が遠ざかる。
このまま・・・・
臥龍はこの時の三助の表情を生涯忘れることは無かった。臥龍は咄嗟に叫んでいた。
駄目だ!
気付いた時、三助の腕はしっかと臥龍の枝に掛り体を支えていた。臥龍は安堵する。
武者が三助の足を引いた。
「そのまま・・降り下され、地は・・近に御座る・・・」
束の間に掴みかけた安らぎは見失われ、彼は又暗い霧の中に引き戻されてしまった。
まだ来るなと、まだ往くなと云うのか
彼は風に揺られながら暫く枝に掛けた手を見つめていたが、諦めた様に指を解いた。
「・・幾ら樹の上から・・・・言え、危のう・・・・りましたな」
地上に帰ってきた主君に武者は声を掛けた。そうだな、と呟いて三助は臥龍を見た。
吹き荒れる木の葉の合い間に見えた彼の顔は、何かを決意した様な厳しい顔だった。
「暴れ狂う風は人の魂をさら掠って行くと言う。帰れ、三助。まだお前を掠われる
 訳にはいかぬ」
三助は破顔して、いつものように白い歯を覗かせた。
「哈々、ならば俺が風になろうぞ」
三助の目が一気に赤く濁った様に見えた。鎧の緋糸が映ったのか、落ち葉の赤か。
三助は、ぱっと踵を返し馬に跨ると、黒母衣の武者に向かった。
「明朝出陣。根切りにいたせ」
「はっ、畏まり候」
黒母衣の武者の顔が強張った。
臥龍はハッとした。違う、いつもの三助ではない。口調も声音も、まるで別人だ。
その時、臥龍と三助の通い合っていた心がふっつりと切れた。いや、拒絶された。
「三助・・・・?」
彼は馬に鞭をあてた。
「どうしたんだ、三助!何故何も言ってくれない!三助!!」
彼にはもう聞こえなかった。いや、聴こうとしなかった。お前は知らなくていい、
欺瞞や怨讐に満ちたこの世界も、もう一人の阿修羅のような自分も。突き放す様な
哀願する様な、そんな背中をしていた。三助は去って行った。顔が見えなかった。
先刻の三助の表情が浮かんで、臥龍は己の無力に打ちのめされた。
翌日、織田軍によって長島の一向宗徒二万人が、生きながらに焼かれた。



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