勘十郎殿御生害の事 司馬ごくたろう先生作

「なんだと!」
信長は激昂した。
「はい。もはや間違いはございませぬ。」
答えたのは前田孫四郎利家。信長の面前には柴田権六勝家が控えていた。信長の弟である勘十郎信行が謀反を企てている。勝家が信長にもたらしたその情報を、ひそかに利家に探らせていた。
信行は先年、母の土田御前と共に宿老である林佐渡守兄弟らに担がれ謀反を起こしている。
この謀反は失敗におわるが、信行ら首謀者は討死した者を除きすべて許されている。
勝家も信行方に加わった一人であるが許され、今は信長に従う腹心となっていた。その信行が再び謀反を企てているというのである。今度は林佐渡守や勝家をあてにせず、守護代織田信安と盟約を結んだ。勝家はその情報をいち早く信長に知らせたのである。信行は龍泉寺の地に砦を築き信長の知行地篠木三郷を横領せんと準備しているという。

なぜじゃ。
なぜ、儂に逆らうのだ。

信長は腕を組み目を閉じた。
信行は信長自身も一目置く一廉の武将である。文武ともに秀でて土田御前の寵愛は厚く多くの家臣からも支持をうけている。いずれ信行にこの尾張なんぞくれてやっても良いのだ。本気でそう思っていた。信長の目は尾張のみに向けられているのではない。もっと大きなものを見ていた。
だが。
だが、まだ早すぎる。信行にこの尾張を任せるには早すぎる。北には斎藤義龍、東には今川義元。いずれも強大な敵に囲まれながら、まだ尾張一国すら統一できていない。
「勘十郎は優しすぎるのだ。」
自然と口から言葉が漏れてしまったようだ。勝家と利家が、はっと面をあげた。信長は利家に問うた。
「勘十郎は、まだ儂の命を狙うておるのか。」
「いえ。そこまでは解りませぬ。」
「お館さま。」
勝家が口をはさんだ。
「実は・・・。はばかれることかと思い、口を出さんでおりましたが・・・。勘十郎殿は以前こう仰っておりもうした。」 
と言う。
「なんじゃ。」
「勘十郎殿は兄さま・・・お館さまが憎いと。」
「憎い。 憎いとな。」
「はっ。 桃厳(父・信秀)さま、御前さまの寵愛を独り占めにしておられると。」
「たわけたことを。 儂は大うつけの吉法師だに。父はともかく母は儂を嫌うこそすれ、寵愛などと。」
「勘十郎殿が申されるには・・・桃厳さまがあまりにもお館さまを愛され、ゆえに御前さまが不憫に思い勘十郎殿に肩入れされているだけだと。」
「・・・。」
信長はもう一度目を閉じた。そんなことがあり得るだろうか。初めて耳にした言葉であり、信じ切れぬ言葉でもあった。やがて静かに目を開けた。
「権六、犬。頼みがある。」

信長が突然の高熱に唸らされ倒れたことを信行に告げたのは勝家だった。もう半月も寝込んだままであるらしい。清洲城には毎日医師があわただしく出入りしており警護の数も物々しいようだ。
やがて病床の信長から「来い。」と兄弟全員に召集が掛けられた。
折しも土田御前の耳にも芳しくない信長の病状がはいり、見舞いに行ってはどうかと相談を持ちかけられていたところである。
信行は土田御前と勝家、その他数人の供をつれ清洲城へ登った。
既に兄弟や妹達は皆揃っており信行は北櫓の天主次ぎの間に案内されたが、男の兄弟のみで重要な話があるとのことで土田御前等は勝家ら供の者と別室で控えることとなった。
天主次ぎの間に入ると確かに兄弟は既に揃っていた。 庶兄の五郎三郎信広は信行の姿を見るとやや端に席をあけ座り直した。 この信広も先年、信長に反旗を翻しながらも敗れ、なおかつ許された男である。
今は跡目争いには無関心を装い信長の忠臣であることに徹している。
「勘十郎殿、お久しゅうございます。 お館さまも直お見えになるそうじゃ。」
信広は信行に対してもへりくだるようになっていた。
それが信行を妙に安心させた。兄は本当に重い病に冒されているのだ。だからこそ時期当主たる自分に信広は媚びを売っているのか。どこかで、ひょっとしたら病とは偽りで兄が自分をだまし討ちにしようとしているのではないかという思いがあったのは確かである。
やがて信長が現れた。
小姓の青貝と利家が両脇を抱える。歩き方もどこかおぼつかない。さらにその後ろを川尻与兵衛鎮吉が三尺ほどの包みを抱えて続いて入ってきた。信長は静かに首座に腰を下ろすと利家、鎮吉らをやや離れたところに控えさせた。
「勘十郎。」
手招きをする。
信行は立ち上がり信長に近づいた。やや手前で再び坐そうとしたその時。
「勘十郎殿、覚悟。」
鎮吉が刀を振りかざし信行に迫った。身をかわそうとする信行の行く手を利家が遮る。横殴りに鎮吉が信行の脇を斬る。さらに返す刀でもう一度。信行は膝をついた。そのまま倒れる。まだ息はある。とどめを刺そうとする鎮吉を信長が制した。ゆっくりと立ち上がり信行の前へ。信行は最後の力を振り絞るように面を上げた。
「あ、兄者・・・。」
信長に取りすがる。
「あ、あ・・・。」
必死に語りかけようとしているようだ。信長も片膝をつき信行に耳を傾けながら睨み返した。
「あ、兄者。こ、この度のこと・・・す、すべて信行の一存・・・。」
信長の襟を掴み声を振り絞る。 自分がなぜ斬られたかも悟ったようだ。
「す、すべて・・・この信行ひとりにて・・・謀ったこと。」
信長は襟を掴まれるままに、ただ睨み返すのみ。
「兄者・・・。は、母さまは・・・母さまは何も知りませぬ。」
はっと、信長の目が見開く。
「は、母さまは、関係ございませぬ・・・。」
「承知しておる。」
信長は信行の肩を抱くように答えた。
「もう良い。何も言うな。この度のことは、すべて信行ひとりの謀り事。誰も咎めはせぬ。母さまも。坊丸も。 他には誰も咎めはせぬ。」
「あ、兄・・・。」
信行はかすかに笑みを浮かべると、信長の襟を掴んだままぐったりと崩れた。
「勘十郎・・・。」 

これまでにない何かがこみ上げてきた。
確かに肉親の死は悲しい。親父が死んだときも、人にはそんな素振りは見せなかったが涙を流した。
平手の爺の時も狂いたくなるほど悲しかった。
だが、それとは違っていた。
悲しい。 今までに味わったことのない悲しさだ。
今までに味わったことのない、何かがこみ上げてきた。
信長は顔を上げ、あとに残された兄弟達を見回した。
皆、恐れと驚愕の表情を拭いきれない。
「お前達。 よく聞け。」
信長は言った。
「信行は謀反を企てた為、ただ今成敗した。この度の謀反は守護代伊勢守と組む為、信行がひとりで画策した。 信行ひとりの謀り事ゆえ他には誰も咎めぬ。 だが。」
自然と信行を抱きかかえていた。
「だが・・・。 信行を謀反に追い込んだのは、この信長にも責任はある。」
熱いものが頬を伝わるのを感じていた。
「この信長の甘さが、この不幸を呼んだ。信行を殺したのはこの信長の甘さじゃ。儂は本日より鬼になる。鬼神となってお前達を統べる。天魔となって尾張を制する。儂に逆らうな。一身に仕えよ・・・。 織田の一族は互いに相克してきた。だが信秀の子らは、信長の兄弟は争うてはならぬ。これ以上、兄弟の血は流させぬ。」
泣いていた。
初めて人前で流す涙であった。
「皆、面を上げよ。儂を見よ。儂の涙を見よ。これが信長の涙ぞ。儂は鬼となり、もう二度と涙は流さぬ。儂の涙をしかと目に焼き付けよ。信長の今生最後の泣き顔ぞ。」
信行を抱くがふるえているのを感じていた。



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