三國志VII 奮闘記 1

 

時は西暦194年、中華の大地。
都・長安から遠く離れた荊州は零陵という都市の片隅に
ひっそりと雌伏するひとりの男がいた…。


194年-10月
 
数年前、私は洛陽郊外での戦いに参加した。
深手を負って一人、南方に落ち延びたまでは記憶しているのだが
どうやってこの地に辿り着いたのかは全く覚えていない。
ここ
零陵は、どの勢力にも属さない空白都市として辛うじて平安を保っているため
傷を癒すのと、腰を落ち着けるには丁度良い土地であった。

周りを見回せば、劉表、孫策、士燮(ししょう)、劉璋といった勢力が
互いにしのぎを削り合っている。都の方では、暴虐を誇った董卓が
呂布の謀反に討たれ、その呂布も李カク・郭シ らの大軍に都を追われたそうだ。
その東のほうでは曹操、袁術、劉備、そして河北では袁紹や公孫サンといった
勢力が睨み合いを続け、まさに一触即発、戦国乱世の世の中である。

「この乱世を良く識るのも悪くあるまい」
私は数年間の隠遁生活ですっかりなまった身体をやおら起こすと、
零陵の街を
巡察に赴いた。巡察といっても私の顔を知っているものは、
まだまだ少ない。屋台で茶を喫していると、
赤子を抱いたみすぼらしい女が物乞いに来た。
「食べるものが買えなくて困っています。お金を恵んでください」
決して裕福なわけではなく、この女とは縁もゆかりもない私であるが
ここは度量のあるところを見せようと、懐中の錦袋を女に手渡した。
あくる日、私の庵の門を叩く者がある。
訪ねてきた男の頼みごとは、街を荒らす
盗賊を退治してくれ、とのことであった。
昨日の施しを見ていた者があったのかもしれない。
それほど腕に覚えがあるわけでもないが、
盗賊の1人や2人ならばなんとかなるだろう。
私は素早く愛馬にうちまたがると、男の案内で賊のアジトへ乗り込んだ。
賊の1人は、私が物々しい身なりをして乗り込んで来るのを見るや、
さっさと逃亡し、残る1人は、私が馬上から投げた槍に胸を貫かれて死んだ。

そして数日後、農民達がまた私の門を叩く。
ついこの前までは誰も訪れることのなかったこの庵も随分有名になったものだ。
なんでも、日照り続きで困っているので
雨乞いをしてくれ、というのだ。
それは無茶だ。私は神ではない。しかし、農民達の嘆願に心を動かされ、
それでは祈祷だけでもしてみようと云った。私は乗せられやすい性分なのかもしれない。
3日後、斎戒沐浴ののち必死に祈ると、本当に雨が降ってきた。民は大喜びだ。
私には、どうやら
天文の才があるらしい。
雨の降りそうな日を選んで祈祷を行ったのだが、
それに気付く者は誰ひとりいなかったようだ。

その晩、民が用意してくれた酒宴の席で、私に声をかけた青年がある。
「貴殿が最近、この街で名声高い
哲坊殿か」
「ああ、私が哲坊だが」
屈強な体格の青年は、
於我(おが)と名乗った。
どうやらこの街の住人らしい。
なかなかの人物で、その晩は意気投合し夜更けまで語り明かした。

於我とは数日ごとに会い、酒を酌み交わす仲となった。
ある日、於我と狩りに出かけた道中、ひとりの女人に出会った。
その女の容貌に何となく惹かれた私は、声をかけてみた。
女の名は
諸葛靖(しょかつせい)。まだ見ぬ賢人の噂を聞き、
諸国放浪の旅をしており、今は隣街の南海に腰を落ち着けているという。
なんでも、その賢人を得れば天下取りも夢ではないのだそうだ。
しかし諸葛靖自身にはその野望はなく、仕えるべき主をも探しているらしい。
そんな人物がいるならば是非会ってみたいものだ。

195年-1月
 
零陵の民が、私に金を寄贈してくれるようになった。
いつの間にか、私は民に崇められる存在になったのか。
先日は、ある男が「龍の方壺」という物珍しい物を寄贈してくれた。
くれるというなら有り難くもらっておこう。
諸葛靖は流浪を続けているためか、各地の情勢に明るい。
天水には
びーさるという占いが得意な女人がいると教えてくれた。
また、隣街の武陵の大守は、人相見が得意の司馬徽だそうだ。
手紙を送ってから会いに行ってみるようにすすめられた。

司馬徽は俗世から隔たった人物で通称「水鏡先生」と呼ばれ親しまれていたが、
何を考えたか、今は劉表の手下として武陵を守っている。
「貴殿の本質は動にあって静にあらず」と、ジッと私の顔を見ていた司馬徽が
開口一番こう発した。なるほど…。
どうやら、司馬徽に評価してもらっただけで私の名声が上がったようだ。
さすが、その道に長けた人物として世間に知られているだけのことはある。

そして数日の後、諸葛靖に会いに南海へ向かう道中で
加礼王(かれいおう)と名乗る恰幅の良い男に出会った。
何故かこの男とは長い付き合いになりそうな気がして
その晩に手紙をしたためたところ、数日後には返事が帰ってきた。

その間、天下の情勢は常に動いていた。
まず北海の孔融は劉ヨウに攻め滅ぼされ、
また呉の厳白虎も乱世の波に呑まれた。
そしてここ荊州の劉表は長沙にまで勢力を拡大し、
東の孫策と対峙。日の出の勢いである。
やがてはこの零陵も劉表の支配下におさまることに
なってしまうのかもしれない。(地図

196年-1月
 
ある日、司馬徽を訪ねると、なんとこの私に、劉表に仕えるように
すすめられた。劉表は、学者然とした男で私はどうも好きになれない。
だが直接 劉表の本国である襄陽に行くわけでなくこの司馬徽の下、
武陵で働くのならばそれも良いと考え、仕官を決意した。

司馬徽の推挙で劉表に仕えて数カ月。
私は過不足なく司馬徽から与えられる任務を遂行していった。
主に国の治安を守ったり、田畑を耕すのを指揮する役目である。
私とともに、司馬徽の下に所属する人物は蔡クン、蔡中という
今ひとつ冴えない男たちであった。

そんな折、久しく会っていなかった於我が訪ねてきた。
「哲坊殿、劉表などの下で働くのはやめて、どうか我々とともに
 天下に名乗りをあげてくれまいか」
「我々とは?」
「それがしと、南海の諸葛靖殿でござる」
その気になった私は、数週間後に武陵の城を後にした。
ふと呼び止めた者があるので振り向くと、司馬徽が追いかけてきた。
引き止めに来たのだ。
私の決意が固いことを知ると、司馬徽は目に涙をためて見送ってくれた。
再会を約して彼と別れ、零陵へ帰還すると、
於我が数千の民とともに待っていてくれた。
私の旗揚げを知って、近隣の義勇兵が集まってきたのだという。
早速、諸葛靖そして先に知り合った加礼王に書簡を送った。

諸葛靖は早速馬を走らせて城へ駆け付けてくれた。
彼女は私のことを いつしか「義兄」と呼ぶようになっていたが、
知力に欠ける私にとって心強い存在である。
加礼王の方は、すでに南海に兵を進めてきた士燮の配下に加わって
しまっていたので、勧誘が叶わなかった。残念だ。
しかし、彼との親交は今後も変わらない…と思いたい。

197年-1月
 
新年とともに、零陵にて旗揚げ。民が金と食料を寄贈してくれた。
有り難いことだ。そして集まった兵は12000。
この街は長い間統治者がいなかったため、かなり治安が悪かった。
まずは治安を保つべく、於我と私で街を警護する。
諸葛靖には街の開発や田畑の開墾を任せることにした。

春になって、加礼王に会いに行った。
士燮の下で活躍するかつての友は すっかり立派な身なりになっていた。
丁度、彼のもとには来客がいた。
餡梨(あんり)という女人だった。
餡梨は屋台を営む気丈な女でなかなかに武芸の腕が立つらしい。
その餡梨の情報によれば、はるか蜀の地の成都には
兵器の開発を熱心に行う、
上総介(かずさのすけ・おめぐ)という女人がいるそうだ。

そんな折、北方では公孫度を滅ぼして勢いに乗っていた公孫サンが、
大国の袁紹にあっさり攻め滅ぼされたという情報が入った。
また、東国では王朗が、孫策によって攻め滅ぼされたようだ。
まさに弱肉強食である。

西には劉璋が治める険阻な蜀の地、東には大河が横たわり、
その向こうには小覇王・孫策率いる水軍、
北には劉表の治める広大な領地…。

まだまだ、先は長そうだ。

 

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