三國志VII 奮闘記 5

 

荊州南部を手中におさめ、新たなる敵・馬騰と対峙した哲坊軍。
嶮岨な地、蜀をめぐっての争奪戦が始まろうとしていた、その矢先…。


 

205年-6月

士燮(ししょう)が、蜀の成都を攻め落とした…。
その報告を
が受けたのは、諸葛靖(しょかつせい)と
上総介(かずさのすけ・通称 おめぐ)2人の女軍艦から学問と治世術の
講義を受けている時だった。
私は立ち上がり、「劉璋はどうなった?」と
報告に来た
紺碧空(こんぺきくう)に尋ねた。
彼には主に情報収集を任せている。
「はい。士燮軍の名将・徐盛に捕われ、斬られたそうでございます」
「なんとしたことか…」
私は筆を休めて、考えこんだ。
「殿、まだ講義の途中ですよ」
上総介にたしなめられた。

すると、今迄、隣で退屈そうな顔をして講義を受けていた
紋次郎(もんじろう)がやにわに立ち上がり、
「こうしてはおれん!哲坊殿。我等も負けておれんぞ!
 一刻も早く、目障りな馬騰軍を蹴散らして、蜀へ入るべきじゃ!」
と言うと、練兵所の方へ走って行ってしまった。
紋次郎は、先頃わが軍に入った剛の者で、義理人情に篤いと評判の人物である。
しかし、酒と女におぼれやすい性格のためか、以前いた馬騰軍では
重く用いられなかったと聞く。
「そうじゃ!練兵じゃ、練兵!」
「あの…義兄、講義は……」
諸葛靖の声を背に、私も駆け出していた。

かくして翌月、於我(おが)を総大将に任じ、
参軍として上総介、そして太郎丸(たろうまる)紋次郎、紺碧空、
甘寧、孟獲に兵8万を与え、
蜀への足掛かりを得るべく、馬騰領の江州へ出陣を命じた。

敵軍も8万。総大将の馬騰以下、馬超、馬岱、胡車児といった
武将らが野戦ならばお手のものとばかり平地に横一列陣形をしいて待ち構えていた。
事実、馬騰軍の猛攻の前に、わが軍は防戦一方。
早くも紺碧空が馬超に捕われてしまった。
しかし、参軍の上総介が知略をもって敵の動きを封じ、
その間に紋次郎、太郎丸、孟獲が敵総大将の馬騰に迫り、これを包囲した。
馬騰隊を集中攻撃によって打ち減らすものの、敵も大軍。
逆に太郎丸が馬岱の攻撃によって生け捕りにされてしまう。
戦いは、わが軍がやや劣勢に立たされていたが、
甘寧が一騎討ちで胡車児を討ち取ると、それに勢いを得て攻めかかり、
馬騰本隊を撃破し、退却に追い込んだ。
馬騰は、梓潼(しどう)方面へと退き、わが軍は見事に江州を奪取。
捕虜となった紺碧空と太郎丸も救出した。

私は、江州の城へ入った。江州は戦続きで街は荒れ果てていたため、
しばらく内政に専念することにした。
ここで、天下の趨勢に目を向けて見ると…。
まず、最近になって急激に勢力を拡大したのは、長らく徐州で
くすぶっていた劉備である。劉備軍は、河北の袁譚を攻め、
袁譚、袁煕兄弟を捕らえて斬り、袁家の勢力を河北北方に追いやってしまった。
その袁家は、袁尚が跡を継いでおり、配下には、
髭鏡(しきょう)という知恵者や、桂原豊という兵法に長けた人物がいると聞く。
劉備軍がここまで急激に勢力をのばせたのは、
1人の天才軍師を迎え入れたためだという。
その名は諸葛亮(字・孔明)。
諸葛亮は、はじめ襄陽で曹操に仕えたが、劉備軍と戦ううちに
劉備の人物に惹かれ、寝返ったようだ。
諸葛亮は、関羽、張飛、伊那猫(いなねこ)、翠火(すいか)といった人材を巧みに
使いこなし、うだつのあがらなかった劉備軍を、今や曹操軍に並ぶ勢力へと
のし上げたのである。
私もそろそろ知略に抜きん出た軍師がほしい所だ。
中央を制していた曹操だが、その勢いは やや失速し、劉備や馬騰に
脅かされつつある。とはいえ、依然大都市を押さえ、配下にも
夏侯惇、典韋、荀イク、新荘剛史(しんじょうこうじ)香香(しゃんしゃん)、
荒賢(こうけん、字・龍鳳)、遁我利(とんがり)、セバス雨山など
錚々たる面々が健在で、まだまだあなどれない。
孫策、馬騰は相変わらず強大な勢力を保っている。
 

206年-3月

新野の曹操軍が、孫策領の江夏へ攻め込んだ。
孫策から、わが軍に救援を求める使者がやって来た。
孫策とは同盟中であり、今後も関係を良好に保つに越したことはない。
諸葛靖の進言もあり、私は江陵から呂蒙、劉巴を派遣した。
攻め寄せる曹操軍は11万の大軍。対して、江夏を守る陸遜の軍はわずか3万。
苦しい戦いであったが、指揮官の陸遜はよく耐え抜き、
廬江からの援軍6万、わが軍の呂蒙、劉巴の3万と合力し、
なんとか曹操軍の猛攻を食い止めた。
曹操軍は大将に典韋、参軍として荀イク。以下、李典、
荒賢、香香、雨山らで、
中には姿をくらませていた
蔡援紀(さいえんき)の姿もあったようだ。
激戦の中、呂蒙が一騎討ちで李典、
蔡援紀を打ち負かし、2人を捕らえたが、
ともに曹操への忠誠心篤く、やむなく解き放ったという。
その他の面々は新野へと退却して行ったようだ。

夏になった。
司馬徽の提案で、わが軍中で腕に覚えのある猛者8名を選び、
武術大会を催すことにした。
以上により、甘寧が見事優勝を飾り、準優勝は於我という結果に終わった。
できれば私も出場したかったのだが、出ていてもせいぜい2回戦止まりであったろう。
その後、わが城を訪れた商人から、的盧という名馬、礼記という書物を購入した。

9月。
軍議にて、馬騰領の梓潼(しどう)攻めが提議された。
諸葛靖、太郎丸ら穏健派は反対したが、戦と聞くと武者震いする者が
多いわが軍のこと。於我、紋次郎らの強い主張により、梓潼攻めが決定した。
私も、前年馬騰軍に連勝している自信からか、いつになく気合いが入った出陣だった。
甘寧、紋次郎、於我、紺碧空、上総介、参軍に諸葛靖を連れ、
10万の大部隊を編成し、攻め込んだ。

しかし。
馬騰軍はこれまでにない強さだった。
梓潼城周辺は、これまた平地で、彼等騎馬軍団の最も得意とする地形であった。
馬騰、馬超、馬岱、呉蘭、蔡瑁、張任ら7万の正規軍に、
漢中から徐晃、兀突骨、馬鉄、びーさるの援軍7万が加わり、総勢14万。
正攻法では勝ち目の薄い戦いとなった。
まず上総介が、兀突骨と びーさるの猛攻にさらされて撤退を余儀無くされ、
紺碧空や於我の部隊も、馬岱、呉蘭、蔡瑁の攻撃に押され、
じりじりと後退した。
続いて紋次郎が馬岱に生け捕られた。
さらに馬騰自らも前進して来て追い討ちをかけ、
わが軍の本陣は蹂躙された。
私も自ら剣を振るい、群がり寄る雑兵を
片っ端から斬っていった。しかし、敵の包囲は厳しくなるばかりだった。
何度となく、敵兵の槍や剣の攻撃を受け、数カ所に傷を負っていた。
「われは徐晃なり!哲坊よ、その首もらいうけた!!」
「馬岱推参!哲坊、出会え!!」
本陣深く斬り込んで来た敵将が、私を探している。
こうなっては仕方がない。
「全軍撤退…」私はやむなく撤退命令を出した。

江州に辿りついた時、味方の兵は3分の1に満たなくなっていた。
惨敗である。
紋次郎は脱出に成功したが、諸葛靖が敵将・馬超に捕われてしまったという。
「許せ…諸葛靖…。必ず助け出すから待っていてくれ…」
私は、将兵らに会わせる顔なく、自室の寝台にもぐりこんだ。

そして…。

「ご主君!!士燮が攻め込んで参りました!!」
数日後、私は紺碧空の大声で目を覚ました。
敗戦の痛手から立ち直る暇もなく、士燮が、この江州へ
攻め込んで来たというのだ。しかし、士燮との関係は良好のはずだ。
「何かの間違いではないのか?」
「いえ、士燮は、わが国との同盟期間が切れたとなるや、
 これまで養っていた建寧の兵を、わが国へ向けたのです!」
「士燮め…。人の弱味につけ込むとは…」
「至急、ご出陣の用意を。御免!」
紺碧空は、閲兵所へ駆け出していった。

攻め寄せる士燮の軍勢は9万。そして、成都からの援軍4万を加え、
総勢13万の大軍である。今迄、あまり戦をしていなかった分、
貯えられた兵力は凄いものがある。
指揮するは、大将の凌操以下、幽壱(ゆうわん)餡梨(あんり)
祝融、孟優、木鹿大王、楊懐といった武将たち。
対するわが軍はわずか5万。
甘寧、厳顔、紋次郎、於我、太郎丸、紺碧空、上総介。
いちかばちか、城外へ討って出、奇襲を試みることにした。
しかし、士燮軍はそれを見破り、わが軍は完全に包囲されてしまった。
士燮軍の容赦ない攻撃。
やがて、兵力を打ち減らしていた甘寧が集中攻撃を浴び、
早くも敵に包囲され、捕われてしまった。
さらに、厳顔も餡梨、祝融の女丈夫2人に囲まれ、生け捕られた。
私は、苦肉の策とばかり、紋次郎に本陣を守るよう指示すると、
自ら敵陣のまっただ中に突入した。そして、そのまま
船を用意させ、河の中へと入った。於我もそれに続く。
私も於我も、かつて呂蒙から水軍を率いる術を学んでいたため、
水軍を操るのには自信があった。
士燮軍は歩兵が多く、また水上戦には不馴れなはず。
それを見越しての戦術である。
上総介が、偽計を用い、後方で敵を挑発してくれた。
幸い、敵は幽壱以外、知略に優れた将がいないようだ。
それに引っ掛かり、敵はわが隊を目指して船を寄せてきた。
私は、於我とともに、敵水軍が1部隊ずつしか通れない河幅の場所を選び、
そこで1隊ずつ迎え撃ち、ことごとく撃破していった。
本陣を守る紋次郎は、木鹿大王、楊懐の攻撃を受けていたが、
力戦し、なんとかしのいでいた。
そして木鹿大王に一騎討ちを挑み、激しい打ち合いの末、これを討ち取った。

私は、餡梨や幽壱の突撃戦法に苦戦したが、上総介が
またも謀略を駆使し、その動きを封じてくれたおかげで、
なんとか持ちこたえていた。
そのうちに、敵総大将の凌操が、河を渡りきろうとした。
そこへ、兵を伏せていた紺碧空が襲い掛かった。
奇襲に泡をくった凌操の部隊は大混乱に陥った。
ここぞとばかり、太郎丸が騎馬隊の機動力を生かし、敵の兵糧を奪い取った。
紺碧空、於我が、凌操に突撃をくり返し、ついにこれを捕らえた。
大軍も、大将が捕われては大いに指揮が乱れ、もろくも敗走を始めた。
追撃するわが軍。
戦闘開始から20日目。わが軍はなんとか江州を死守したのである。

捕虜となった甘寧、厳顔は無事助け出した。
敵の捕虜、幽壱、餡梨、凌操は素直に登用に応じた。
彼等も、今回の士燮のやり口に、納得いかないものを感じていたらしい。

207年-1月
 
やられたらやり返すまで。
年明けとともに、わが軍は、士燮の治める蜀の首都、
成都へ攻め入った。
要害の上、名将・徐盛が守っているため、容易には落ちなかったが、
士燮への怒りに燃えるわが軍は、10万の大軍勢で攻めかけ、
ついに成都を奪取した。
残念ながら、徐盛は配下になるのを拒んだため、解放した。

しかし、士燮もさるもの。
成都攻めで手薄となった江州に、再度建寧から攻め込んで来たのである。
江州は、厳顔、紋次郎、餡梨の2万のみ。
士燮軍は、建寧太守の許西夏(きょせいか、字・重龍)、
前年の復讐に燃える孟優、祝融、楊懐らの6万であった。
わが軍は、成都からすぐさま、於我、甘寧、太郎丸の軍3万を援軍に送った。
江州の兵2万は苦戦していたが、成都から於我らの援軍が到着すると、
士燮軍を挟撃する格好となり、一気に優勢に立った。
敵将・許西夏は知略に優れた男で、於我、甘寧らを度々挑発し、
わが軍をかきみだしたが、太郎丸が敵陣を押さえて兵糧を焼き払うと、
全軍に撤退命令を出した。
わが軍は追撃し、彼等を残らず捕らえた。

まず、捕虜となった者のうち、張勲、楊懐を斬った。
孟優は仕官を拒んだが、わが軍の孟獲の弟なので見逃し、
そして、許西夏、祝融を登用することに成功した。

どうにか、度重なる士燮の襲来を防ぎきることができた。
しかし、士燮軍の主力は、いまだ南に健在である。
北の馬騰軍も、いつ侵攻して来るか分からない状況である。
わが国は、南北両面の敵と相対する形となってしまった。

そんな折、嬉しい知らせが届いた。
紺碧空が梓潼に潜入し、馬騰軍に捕われていた諸葛靖を
つれ戻して来たというのである。

私は諸葛靖を国境まで出迎えた。
「義兄、御心配かけました」
諸葛靖は、万感胸に迫ったのか、はらはらと泪を落した。
その夜は、成都で諸葛靖の帰還を祝っての盛大な宴が催された。

 

現在の地図を見る  現在の哲坊陣営(成都、江州)

 

 

 

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