武田戦記(四) 駿河へ うつけゆーろー先生作

義信は父、信玄によって幽閉され、切腹して果てた。

信玄も悲しかったであろうと思われる。しかし、息子の命よりも一族の繁栄が大事であった。義信の死によって、信玄の駿河出兵に反対する者がいなくなったのである。
まさに、涙を飲んでの出兵であった。

織田信長によって当主の義元を討ち取られた今川家は、氏真がその後を継いでいたが彼は京都の貴族かぶれで蹴鞠ばかりしていたため、家臣たちの気持ちも離れかけている。
今川家の属国であった三河の徳川家康も独立しており、今川家の勢力は日に日に落ちつづけているといっていい。
信玄にとってまさに好機であった。

「皆、頑張るのじゃぞ」
義元の母、寿桂尼は目を血走らせて重臣の一人一人に声をかけ、励ましていた。
「信玄めを打ち払うのじゃ!」
今川家を牛耳っているのは当主・氏真の祖母である彼女である。
「お祖母上、落ち着いて下され」
氏真はおっとりとした口調で言った。彼には同盟中の信玄が自領の駿河に攻め込んだことさえ、いまだに信じられなかった。さらに、つい最近まで自分の属国であった三河の家康までもが攻めてくるとは、夢にも思わなかったに違いない。
「寿桂尼様、我々は今川家のために力を尽くしまする。ご安心召されませ」
重臣たちは声を揃えてそう言ったが、だれも寿桂尼と目を合わせることができなかった。

「大井川が境界にござりまする」
家康はうなずいた。
「されど」
「・・・されど?」
「されど、戦には勢いというものがござれば、敵を追う際に境界を越えたとしても、それはあくまで勢いでござりまする」
「・・・」
「それでは、御武運、お祈り申し上げまする」
武田の使者は退出した。
「怪しいですな。今の話」
家康の重臣、酒井忠次は家康の顔を覗き込むようにして言った。
「まあ、よい。すぐに出陣の用意をいたせ」
「ははっ」

信玄が今川領の駿河を目指して南下を開始したのは永禄十一年十二月のことである。
同じ頃、家康も遠江へ侵入した。
白地に「厭離穢土欣求浄土」と黒字で染め抜いた素朴な軍旗のそばに家康はいる。
「氏真殿は慌てているでしょうな」
家康のすぐ隣で酒井忠次が言った。
家康はその幼少時代、人質として今川家で育てられた。その領地を信玄と共に攻めているのである。
(人の世はわからぬものよ)
家康は遠江の空を見上げた。

信玄の侵攻の速さはただものではない。
家康が空を見上げているころ、既に今川家の居城である駿府館を落とし、氏真を敗走させた。
いや、戦わずに逃げたのである。
氏真の重臣のほとんどが信玄方に寝返っており、戦うすべも無かったのであろう。
氏真は遠江の掛川城へ逃げた。
さらに、信玄は家康との約束を破って遠江へ兵を出し、領民を煽動して一揆を起こさせ、家康の動きを封じた。それでも家康は遠江の諸城を攻略し、引馬城に入った。

「おのれ信玄、この違約は何事かっ!」
信玄の軍勢は信濃からも現れ、遠江に侵入した。
「すぐに信玄へ書状を送るのじゃ!」
「殿、落ち着きなされ」
酒井忠次は必死に家康を抑えようとした。
「今は氏真の掛川城の方が先でござる」
「むう・・・。信玄め」
家康は深いため息をついた。

永禄十二年五月、氏真の掛川城は家康によって落とされたものの、遠江の一部は信玄の領地になったままである。信玄は短期間のうちに駿河全域と遠江の一部を領することに成功した。



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