『革命者でいること』③信念(バラバラ) 河合統金先生作

 遠野中将でございます。  あらあら、いったいどちらへお行きに!どういうわけか、親族の方々や歴代の家老が集まるところを、あの方は逃げ出しておしまいになるのです。このお方は満16歳(数え18)のとき、父君が亡くされたのでございました。16歳とは言いましても、当時は立派な成人、成熟した大人と見なされる御歳でございます。そんな年がいもなく、あいかわらず落ち着きのない三郎殿は、跡目を相続する際にもまた問題を起こしてしまわれるのでした。
     *     *     *
(1)
――少年が走っていく。
 その後ろ姿を、見かけた者は誰でもみな目で追ってしまう。変な奴だと思うからだ。見たくなくても思わず目にとまってしまうような。見たあと決まって首をかしげる。「これはいったい、どういうことだ?」
 やがてひそひそと噂話が始まる。あいつのここがおかしい、あれがおかしい、実は頭がおかしいのではないか?そもそも狂人なのではないか?いやいやただの馬鹿だろう、馬鹿というよりうつけ(ほんやり者)だろう、しかしありゃあただモンじゃねェな、そうかそいじゃあ“大うつけ”だ。

 自由でいたい、自由でいたい。大空を舞う鳥のように。自由に羽を広げて、どんなものにもとらわれずに。
 常識にはまりたくない、枠にはまりたくない、大人たちのようにあるいはませた若者のように。それじゃあ何も生み出せないから。
 俺をそんな目で見ないでくれ。俺はそんな型どおりの人間なんかじゃない。もっと自由な、制限のない、どんなことだってできる、どんなことだってやってみせる、本当に自由な人間なんだ、俺は――。
 どうして解ってくれない?俺はただ、自分の好きなようにしているだけ。何も悪いことはしていない。皆だって、楽して好きなようにやれば、いいじゃないか、あくせく上を目指さずに。
 「総領としてふさわしいことを何もしていない」?俺は「総領」なんてちっぽけな存在なんかじゃない。俺は、天下一の、天下一品の“織田三郎信長”だ。そんなちんけな枠にはめるんじゃない!
 どうして、どうして解ってくれないんだ、俺ばかりが責められて。俺ばかりが槍玉に挙がる。静かにしてくれ、黙ってくれ!俺がそんなに悪いのか!
――か細い体が人気ない山中を、どんどんかけ上がっていく。その背中は息を切らして、少女のように頼りない。
 ここなら誰も来まい――いや、誰にも会いたくない。誰も来るんじゃない。来ないでくれ!
 城を抜け出してかけにかけて来たこの場所。来るのは2度目だ。ひとりに、ひとりにしてくれ、真っ暗な……。
 木戸をくぐり、隅に肩を寄せて両膝を抱えた。とてもやりきれない。自分は城には居られない。何も見たくない、聞きたくない。ほつれた髪がしどけなく腕に垂れる。そのまま腕に、顔をうずめる。ここは小さな山小屋だ。材木の隙間から、わずかに白い光が見えるだけ。真っ暗だ。ここなら何も無い。
――脆くも壊れやすい少年の心。乱暴そうに見えるのは、いきがっているだけなのだ。父が支えてきたものは…彼の背にはあまりに重かった。世間の目は、想像以上に厳しく、打ちひしがれた少年を断罪する。
 カッコウの声が聞こえる……
 どのくらいたっただろう。ふとした物音に顔を上げた。黒い人影が一つ、ぼんやり浮かんで見える。誰だろう、俺はもう動く気力すらないというのに……。
 浅黒い男は、さっと片膝を付いて手を差しのべた。心配そうな顔だ。何を、そんなに心配している…?
 ごわついた太い腕が肩に回って助け起こそうとする。父に従っていた忠実な馬廻りが少年をそっと抱きしめた。
「御家門様、御家門様、私がお護りいたしますから…」     (注:家門とは当主のこと)
どうぞお戻りください――織田造酒丞としか名の伝わらない、槍一本で身を立てた屈強の馬廻りが、その健脚で彼を捜し回ったのであった。造酒丞は父信秀の寵臣であった。その武功で信秀に取り立てられ、織田姓を名乗ることまで許されている。人一倍信秀に御恩を感じている直参の一人であった。
 小姓とは大違いの、むさ苦しい男だったがそれでもいまの信長には有難かった。

「俺は別に、そんなことを考えているんじゃないんだ」
城に戻り、対面所に座り直した三郎信長は、やっと口を開いた。
「俺はただ、この尾張国半国(下郡四郡)が戦のない静かな所になって、ここに暮らす人たちが皆幸せに、一生を送れるようになればいいって思っているだけだ」
 居並ぶ親族・家老たちは皆失笑した。「戦のない静かな所」なんてそんな非現実的なことを抜かしてるんじゃない、そういう馬鹿なことばかり考えているから、こいつはいつまでたっても“大うつけ”。ボーッと夢ばかり見て、死んだ魚のような目をしている。性根の腐った、クズのような人間だ。子煩悩な親父殿が、ご嫡男には特に甘かったものだから…。
 冷やかな視線がいっせいに信長に注がれた。
「それでその『戦のない静かな所』とやらはどうやってお作りになるのですかな?」
「それは……。まだ分からない。いまはまだ全体が混乱している。寝返りそうな奴はいっぱいいるし、今川勢も入ってくるだろうし……」
 もはや家老も親族たちも、口をあんぐり開けてあきれ果てた様子で顔を見合わせ、話し合いはここで終了してしまった。
 このあとは、退出する信長のあとを平手中務(政秀)があわてて追いかけるのが、いつものパターンである。
「三郎様、なぜあのようなことをおっしゃったのです?『新当主として、亡き父が獲得した領土の保持・拡大に努め、父の長年の望みであった稲葉山城を手に入れることこそ我が志である』と、どうしておっしゃらないのですか!このままでは織田家中は分裂してしまいます」
「中務、俺にはそんな野心はないのだ。現に、ここに暮らす領民どもは何十年も続く戦に疲れ切っている。俺は父上から受け継いだものだけで十分満足している。従兄殿や叔父上が欲しい所でもあるのなら、余分な土地は分け与えよう。勘十郎(信行)にも末森の城を譲る」
「な、なにをおおせられる。まさかそんな生ぬるいやり方で事が収まると思っておいでだとは……!」
 信長は足早に奥の自室へ向かっていく。
「いいのだ。俺は極力、戦はしたくない」
「戦をしたくない」というのは、民を苦しめたくないという意味である。平手は歩みを止めて肩を落とし、薄暗い廊下で大きなため息をついた。
(2)
 案の定、鳴海にいた賢い山口左馬助は今川方に寝返り、先代信秀公と敵対関係にあった織田彦五郎も今がチャンスとばかりに兵を挙げた。三郎様に味方(身方)するのは唯一、下心のある叔父信光のみ、柴田や佐久間など織田家歴々の重鎮たちは、三郎様を見限り弟勘十郎様を守り立てる方針に踏み切る者と、方針を決めかねて右往左往する者とに分かれ、三郎様に援軍を出すような者はいない(もっとも柴田などは、疑われぬよう援軍を出したりしている)。筆頭家老の位置にある林も、最近は動きが怪しく、兵を出し渋るようになった。同じく家老の青山は、与三右衛門亡きあと嗣子がまだ幼く一門がまとまらずにいた。
さらに、そればかりではなく、平手一族内でも、後継の長男五郎右衛門が駿馬を三郎様に譲らず悪態をついて以来、三郎様との確執が表面化し、次男・三男も三郎様より勘十郎様の末森へ出仕したいと言い始めている。
 信秀公が亡くなられてからというもの、織田家は本当に、バラバラになってしまったのであった。どれもこれも、みな、総領の三郎様がきちんとしていないから悪いのである。

「だって、しょうがないじゃないかッ」
 中務(平手政秀)に問い詰められて信長はエラそうに開き直ってみせた。中務が言うことはいつもいつも同じことのくり返し。中務がこれを言い始めると信長は、腹の奥に大石がずしりと置かれたかのようなひどいストレスを感じるのだった。
 幼い頃からそばにいる中務がどうして自分の悩みを解ってくれないのか、もう信長は辛く辛くて仕方がなかった。説教をされるたびに傷付いた。
「三郎様がしっかりなさらないからいけないのです。ああ、こんなことになるなら、はじめから先代様に『このお子様はとても総領になれるようなお方ではございません』とご出家させることをお勧めしておけば良かった。まったく、私の手落ちでございました……」
 こんな、言ってもどうしようもないことばかり延々と並べて、この老近習は、よよ、よよと泣くのである。もちろん、平手自身にとっては、信長のことを我が子よりも大事と思えばこその必死の行動であったのだが、この手の小言ほど信長が嫌いなものもまたなかった。
 20年近くも毎日毎日文句ばかり言われて、このごろはますますそれがエスカレートしてきている。「うるさい!」と思いきり怒鳴れば気が済むような単純なものではなかった。
 あるとき信長はとうとう堪忍袋の緒が切れて、よよと泣き崩れる老人に硯(すずり)ののった文机を投げ飛ばし、怒鳴り散らすという騒ぎを起こした。
 手元に投げられる物が何もなくなると、いかり狂った信長は脇差に手を当てて歯噛みをしながら立ち上がった。突然の物音に小姓たちがあわてて入ってきて、信長のあまりの血相に立ちすくんだ。
「この野郎、大人しく聞いていりゃあ付け上がりやがって!!」
「むぅぅぅ、ふむぅぅぅ、『このままでは自分はもう三郎様をお支えすることはできません』だとォ……!!そんならはやく、とっととどっかへ消えちまえばいいだろッ!……お前なんか、もうたくさんだ!!」
「……」
「もうたくさんだと言っとるだろうがこのドアホ!!とっととどっかへ消えちまえ!!」
「……もう二度と、俺の目の前に姿を現すんじゃねぇッ!」
 小姓の一人が動いて、墨をかぶってうずくまった老近習を助け起こし、居間の外へ連れ出した。信長は、がちがちと震える手で必死に脇差を押さえていた。もし抜いてしまったら、間違いなく斬り殺してしまったはずだ、父親と変わらぬほどの“肉親”を。  中務が去っていくのを見てその場にへたり込んだ彼の目からは、意外にも涙があふれ出、とうとうと流れをなしていた。怒りのせいだけではない。俺だって辛いのだ。こんなに皆がバラバラになってしまって…どうしたらいいのかわからないんだ…俺には……。解ってくれ!解ってくれ!解ってくれ……中務!

 目も当てられぬほど信長が号泣したのも、無理はなかった。信長のそばにいられなくなった平手のじいは、自分の所領に帰り、その日のうちに切腹して果てた。絶望してしまったためか、遺言状もなく(あるいは子息たちが隠していたのかも知れない)、ただただ「死んだ」という事実が、何かを物語るばかりであった。遺体を荼毘(だび)に付し、仏事が一通り終わると、大声でひとしきり泣いた信長の前に懐かしい顔が現れた。
 幼少のころ信長の師であった沢彦和尚は、静かにそっと腰を下ろした。ゆっくりとした動作で茶をすすめ、人を断(た)って二人きりになった。
「織田宗家のお方ヨ。どうなされタ。お苦しいのカ」
 武士とは違う独特のアクセントで話すその声が信長にはひどく懐かしかった。
「俺のせいで中務は死んだ……」
 和尚は静かに茶をすすって次の言葉を待った。
「……俺は、……、…もう駄目だ…」
 信長は、やっと落ち着いてきて思い出したように鼻をすすった。
「……和尚、俺はもう、坊主になってしまいたい…ッ」
 「坊主になってしまいたい」とは、武士を辞めたいという意味である。武辺の総領にあるまじきすがりつくような目つきだった。  和尚は押し黙った。しばらくして静かにこう一言だけ言った。
「これハ、貴方様にしかできないことなのでス。坊主ハ遺骸の処理ハできまスけれドモ。この乱世デ、遺骸の数を減らス(戦乱を終わらせるということ)、これをすることハできないのでス」
 乱世においては、平和な世の中をつくり出すのにも、武をもって制する(=天下布武)ほか、ないのだった。