臥龍桜 2 龍華成先生作

やっとつぼみが膨らみかけてきたある穏やかな日。少年はまた一人でやってきた。
先客がいた。
その先客は少年がいつも立ち止まる場所に床几を置き、従者を侍らせ座っていた。
少年は先客の男には目も呉れず、いつも通り馬を繰り、やがて男の前で止まった。
「退け」
少年は吐いた。従者達は驚いて立ち上がり、太刀を抜き放って少年を取り囲んだ。
「何者か!お屋形様に向かってなんたる無礼!叩き斬ってくれる!」
「そこは俺の場所だ」
従者の言葉など聞いてはいなかった。少年は目の前のその男にだけ言葉を向けた。
男は手を差し出して従者達を留めると、鋭い視線を向けた。少年は動じなかった。
「そこが一番綺麗だ」
男は初め首をかしげた。どういう意味だろう?
男のいる場所が、特別綺麗な訳でもなく、かといって他の場所が汚い訳でもない。
が、男は理解った。少年は「そこから見る櫻が一番綺麗だ」と言っているのだと。
何よりも、自分が其処に座っているのも同じ理由からだった。興味をそそられた。
「ならば、先ず馬を降りよ」
男は微笑った。少年はにこりともしなかったが、素直に従って馬から飛び降りた。
男は立ち上がり、少年を抱え上げると、自分の膝の上に乗せ、床几に座り直した。
「これでよかろう?」
少年はコクリとひとつ頷いた。男はまた笑い、二人は長いこと臥龍を眺めていた。
従者は何故二人が花も咲いていない枝ばかりの桜を見に来るのか分からなかった。
何時経っただろう。帰る、と少年は言った。膝から降りた少年を男は呼び止めた。
「おい小僧。お前はなかなか面白き奴じゃ。儂に、美濃の蝮に仕える気はないか」
少年は目新しいものを見た様な、驚いた様な顔をした。が、すぐに顔をしかめて、
「嫌だ」
と言った。男は横っ面を張られた様な衝撃を受けた。断るとは思っていなかった。
「何故じゃ」
男は率直に訊いた。自分にはこの少年を心服させるに足らぬ所が有るというのか。
少年はまた顔をしかめた。お前ほどの男が何故解らぬのかとでも言いた気だった。
「人に仕えるくらいなら、腹割っさばいて死んだ方がましだ」
言い終わるか終わらないかの内に、少年はピィと指笛を吹いた。馬を呼んだのだ。
ひらりと馬に跨ると肩越しに男を振り返った。その時少年は初めて笑顔を見せた。
「我が名は三助!近く戦場で会う日もあろう。それまで達者で居られよ、蝮殿!」
カッカと笑うと尾張の国の方へと駆けて行った。生暖かい風がサッと吹き抜けた。
臥龍は葉のない枝を細かく震わせた。男はさっと臥龍を見上げ、苦々しく笑った。
「臥龍めが、笑っておるわ。分かっておる。無念かな、儂ともあろう者が、小僧に
手も無く捻られてしまった・・・・・」
男は少年の駆け去った方角を見遣り、久しくなかった心沸くような快感を覚えた。
何と苛烈な信念の持主だろうか、男は思った。何としてでも少年を手に入れたい。
男は城に戻るとすぐ、細作を何十と放ち、尾張の国の「三助」なる者を探させた。
数日して、細作が報告に戻って来始めたが、どれも芳しくないものばかりだった。
珍しい名前でもないから当たり前だが、武家の子供に絞っても十数人はいるのだ。
しかし、おかしな事になった。男の言う特徴に当てはまる者はいないというのだ。
婆娑羅な格好であったし、かなり立派な青馬に乗っていた。見つからぬ筈がない。
男は念の為、三河、遠江まで探らせたが、結果は同じだった。 「三助」はいない。
やがて尾張が攻めて来た為「三助」探しに何十も細作を使っていられなくなった。
仕方なく男は「三助」探しを中断したが、折りに触れては三助の事を思い出した。
神など全く信じない男ではあったが、まるで風のように去っていったあの少年は、
もしかしたら、神の使いだったのではないかと思った程だった。しかし、数年後、
男は少年と意外な再会を果たすのだが・・・・それは臥龍の知り置かぬところである。


その後も男は足繁く通い続け、少年は相変わらず、気の向くままにやって来たが、
それきり、彼らが臥龍の元で会うことはなかった。運命も少年並に気ままだった。
時と共に男は年老い、髪も薄くなって、白いものが混じり始め、又、皺も増えた。
しかし外見よりも何よりも、老いが男の内面を変えた。彼は実に穏やかになった。
彼の瞳は、もう自分は完了してしまった男だ、とでも言うように黒く澄んでいた。
少年も見る間に成長し、逞しい偉丈夫になった。が、色白の肌はそのままだった。
少年のぎらぎらした鳶色の瞳は、少し狂気を帯び、血の匂いが混じる様になった。


武家の男子として生まれたからには、何処かの(普通、親の仕える所にそのまま、
というのが多い)武将もしくは有力な家臣に仕官して、立身出世を目指すものだ。
三助も、どうやら例に漏れず仕官を果たし、どんどん出世しているように見えた。
尾張の国主、織田信長と云う人は、家柄でなく能力を重んじる人だと聞いている。
きっと、そこに仕えているのだろう。臥龍はそう思っていた。三助にはわるいが、
どう見ても、彼は由緒ある家柄の人間には見えない。良家のお坊ちゃんにしては、
顔に覇気がありすぎる。三助のあのぎらぎらした目は常に何かに飢えている目だ。
ふらりとやって来る三助を、若い男達が迎えにくる事がしばしばあった。三助は、
「折角、お前の事は秘密にしておったのになぁ・・・・」と、愚痴をこぼしていたが、
結局、彼等とわあわあ騒ぎながら、こちらを振り返りもせず帰っていくのだった。
三助の事を「御屋形様、御屋形様」と呼んでいたから、多分三助の家臣であろうが、
どちらかと言うと、遊び仲間のような雰囲気だった。三助が御屋形様と言う事は、
彼はもう、城を任されるようになったのか、そう思うと、御屋形様という響きが、
恥しい様な、くすぐったい様な、妙なものに感ぜられた。人の子の親というのは、
こう思うものなのだろうかと嬉しくも思った。だが一方で、臥龍の心の片隅では、
三助が、初めて蝮殿に逢った時に言ったあの言葉が、いつまでもくすぶっていた。
『人に仕えるくらいなら、腹割っさばいて死んだ方がましだ』
これ程の信念の持主だったからこそ、自分は三助に魅かれたはずだし、その彼の
行く末を見届けたいが為だけに、一度は尽きたはずの命を長らえさせてきたのに。
彼は忘れてしまったのだろうか。大人になるという事は妥協するという事なのか。
それとも、彼の主君は、彼の信念を捨ててまで仕える価値のある人なのだろうか。
織田信長。
臥龍は初めて人に敵意を持った。


また幾年月が過ぎ、若葉の青が目に眩しくなった頃、三助はぶらりとやって来た。
頬はこけ、目は落ち窪み、平素の憂鬱気な顔が、いつもにも増して青ざめていた。
まるで落ち武者の様だった。彼はがっくりと両膝を着いた。臥龍は葉を震わせる。
「蝮殿が死んだ・・・・」
彼は答えた。そのまま崩れるように突っ伏すと、地面に力一杯、拳を叩きつけた。
「くそっ、尾張の小伜が!何故間に合わなんだ・・・・速さを求めるのは貴様の信念
 ではなかったか!!」
怒りに体を震わせている三助の目から涙が溢れ出した。拭ってもとまらなかった。
初めて人を斬った日から、非情の鬼となって生きていくと心に決めたその日から、
誰にも見せなかった彼の涙は、頬を伝って点々と臥龍の根元に染み込んでいった。
「何故死んだっ!!くそっ・・・・く・・・・・・・・・」
彼は大声をあげて泣いた。声も涙も涸れ果てるまで、泣き続けた。臥龍も泣いた。


後になって、伝え聞いたところによると、蝮殿は美濃の国主、斎藤道三といって、
美濃一円を掌中におさめ、絶大な権力を誇る大大名だったそうだ。しかし息子の
義龍に居城を攻められ、長良川河畔で戦となったが、明らかな劣勢に立たされた。
義理の息子となっていた織田信長が、家中の反対を押し切り援軍に駆けつけたが、
援軍の到着を待つ事無く、道三は討たれた。我が身の終わりを悟っていた道三は、
出陣前、信長に「援軍無用、戦は義の為にするものに非ず」との書状を送ったが、
信長はこれを無視した。二人は固い絆で結ばれていたとか、義龍が実の親である
道三を討とうとしたのは、道三が義龍よりも、信長の方を愛していたからだとか、
特別目をかけている信長に損害を与えぬ様、道三は討死にを早めたという噂まで
流れていた。しかし人々がどんな噂をしていても、臥龍だけは真実を知っていた。
(蝮殿は三助を死なせたくなかったのだ)
蝮殿の気持ちは三助に伝わっていただろうか。
翌年、臥龍は真紅の花を咲かせた。



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