『お市が行く』 司馬ごくたろう先生作

むぎゅっ。
突然、右頬を抓られた。
「いててて、なんだよう。」
右頬を引っ張られつつそのまま振り向いた。
「あっ。」
と、声をあげる暇もなく今度は左頬も抓あげられる。
「ひゃ、ひゃへふへ。」
抓る力がさらに増す。
「ひ、ひはひへふ。・・・ひ、ひはひ。」
「こらっ。」
と、抓る手のさらに上から厳しい声が聞こえてくる。
「何ですか。物を言うときははっきりとおっしゃいなさい。」
「へ、へも、ひゃねふへはほほほふへっへふははひゃへへはへん。」
「ああ、そうでしたわ。」
厳しい声の持ち主が優しい声の持ち主に変身を遂げ、そっと両頬から手を離した。
この声の主は、そう。
姉上様・・・。
本当は叔母上だけど姉上と呼ばないと怒る、お市姉上様だ。
姉上様はにっこり微笑むとそっと頬を撫でてくれた。
「ごめんね。痛かった。」
「うん。」
ちょっと拗ねてみた。すると。
「痛いのは当たり前じゃ。」
と、また頬を前以上の力で抓られてしまった。
「奇妙っ。貴方また稽古をサボりましたね。」
は、はへへふ。(はっ。バレてる。)
「何度言ったらわかるのです。」
ひ、ひはひ。(い、痛い)
「奇妙は武士の心得をなんと思うておるのか。」
はひ。(はい。)
「弓稽古、鉄砲、槍稽古。 武士は戦で勝たねばならぬのですぞ。」
は、はひ。(は、はい。)
「稽古を怠って立派な武将になれると思うているのですか。」
ひゃ、ひゃふへて。(た、助けて。)
すると背後から聞き覚えのある、少し高めの男の声がかかった。
「どうしたんだ。騒々しい。」
「ひゃ、ひゃひゃふへ。」
姉上様はその声を聞いても少しも力を緩めようとしない。
むしろ、より強く・・・てててててっ。
「兄上。奇妙がまたお稽古をサボったのです。」
「ははははは。奇妙、それはいかんな。でもお市。お前のその手ももう少し加減したらどうだ。」
「なりませぬ。これで三度目です。奇妙は口で言っても聞きません。」
兄上と呼ばれたのはこの奇妙の父君、信長である。
奇妙にとっては父上様なのだが、姉上様にとっては兄上様なのだ。
くどいようだが姉上様は本当は叔母上様だからだ。
父上様のことを父上様の弟である信包の叔父殿も信興の叔父殿も兄上とは呼ばない。
「殿」と呼ぶ。
他の叔母上様や父上様の兄君である信広の伯父殿も「殿」と呼ぶ。
この姉上様だけが「兄上」と呼ぶ。
唯一の例外なのだ。
「だからといって、そんなに抓っては顔がかわってしまう。」
父上様は、かばってくれるようだ。
「ひゃひゃふえひゃひゃ、ひゃひゃふえひゃひゃ、ひゅひゅひへふひゃひゃひ。(父上様、姉上様、許して下さい。)」
「奇妙っ。今、私の悪口を言いましたね。」
「ひひへひゃへん。ひひへひゃへん。(言ってません。言ってません。)」
「それみろ、お市。何を言ってるのかさっぱりわからんではないか。」
「ひゃ、ひゃひゃふへふひゃひゃひ。(助けて下さい。)」
「助けてですって? 謝るのが先でしょう。」
「ひ、ひひょへへひゅひゃひゃひへふは。(聞こえてるではないですか。)」
「お市。それぐらいにしておけ。奇妙には後で儂からちゃんと言うてきかせておくから。」
「またそんなことを言って。兄上は自分にも家臣にも厳しいのに、どうしいて息子にだけは甘いのかしら。」
「・・・・。」
「それに奇妙のこのだらしなさ。全く誰に似たのかしら。」
姉上様はもう一度思いっきり頬を引っ張り上げるとやっと手を離してくれた。
「奇妙、ちゃんと謝りなさい。」
「姉上様、申ひ訳ごはまへん。明日はら必ふ稽古にはへみます。」
奇妙は深々と頭を下げた。まだちょっと口がうまく動かない。
「ほら、父上様にもちゃんとあやまりなさい。」
姉上様に頭をこづかれ父上様の方を向く。
「父上様、申ひ訳ございまへん。明日はら必ず稽古にはげみます。」
少し回復してきた。父上は笑っておられた。

「ところでお市、例の件、決心はついたか。」
突然父上が真顔になり姉上様にたずねる。
例の件ってなんだろう。
姉上様を見上げるとほのかに頬を赤く染めている。なんだろう。
「いや。と、言ってもだめなんでございましょう。」
いたずらっぽい目つきで姉上様は答えた。
「もちろん、そうじゃが・・・。でも儂も無理強いはしたくない。」
「一つだけ、聞いてもいいですか?」
「何じゃ?」
「浅井の殿様はカッコイイのですか?」
「・・・。」
「答えては下さらぬのですか。」
「し、知らん・・・。」
「まぁ。兄上は顔も知らぬ男に可愛い妹を嫁がせるつもりなのですか。」
「だが、お市。男は顔ではないぞ。あやつはなかなかの強者だそうじゃ。」
「もちろん男は顔ではありませぬ。ですが顔もいいことに越したことはございませぬ。」
「・・・。」
「それに私の理想は兄上ですの。」
「ば、馬鹿を申すでない。」
「だから兄上以上にいい男でない男に嫁ぐのはいやでございます。」
姉上様は父上様の目をじっと見つめる。
なんだ、なんだ、なんだ。この異様な雰囲気は。
「ふふふ。いやですわ、兄上。そんなに顔を赤くされると、こっちまで恥ずかしくなります。」
「お、お市っ・・・。」
父上様はちょっともどかしそうに懐から一枚の紙をとりだした。
「実はな。お前がそういうだろうと思って草の者にさぐらせたのじゃ。」
くしゃくしゃに畳まれた紙をひろげると姉上様に渡す。
「人相を書かせてみたのじゃが・・・どうも絵心の無い奴を選んでしまったようでな。」
紙を見つめた姉上様の顔がぐっとゆがむ。
「なかなか人の顔には見えぬのじゃが本物はまともじゃぞ。城下の評判はそこそこいいらしい。」
み、見えない。背伸びをするけど・・・やはり見えない。
「そうねぇ。これは・・・ね。でも雰囲気はでているんじゃないかしら。包容力はありそうね。」
「そ、そうじゃろ。」
「いいわ。合格点をあげる。」
「じ、じゃぁ、いいのか。」
答えるかわりに姉上様はそっとうつむいた。
あ、姉上様は、はにかんでいるのか?
「では、さっそく話を進めるぞ。」
父上様は少々テンションを高くしてこの場を去られた。

「ねぇねぇ、姉上様。」
奇妙は姉上様の袖をひっぱった。
「ん?なぁに?」
姉上様が微笑んだ。
どきっ!
き、綺麗・・・。
「えっ?」
「あ、え、、いや、き、きれい・・・。」
「まぁ、何ませてんだかこの子は。」
ぴん!と鼻頭を指ではじかれてしまった。
「え?いや。そうじゃなくて・・・今の、何? 何のこと?」
あらためて聞き返すと姉上様は「ふふ~ん。」と空を見上げて質問に答えてくれない。
「ねぇねぇ。ねぇったらぁ。」
と、甘えてみる。
すると姉上様はかがみ込むと奇妙の手をしっかりと握った。
「いいですか。奇妙。姉上様はもうお前を叱ってやれなくなりました。」
握る手は少しづつ力強くなる。
「近江へ行くこととなりました。近江の浅井長政さまのもとへ嫁いでいくのです。」
え?何だって?
「だからもう、奇妙が稽古をサボっても叱ることが出来ません。」
そ、そんな。
「約束して下さい。こんな口うるさい姉上がいなくても稽古をサボったりしませんね。」
い、いやだ。
「奇妙。返事をなさい。」
「い、いや・・・。」
「いやではありませぬ。」
姉上様は奇妙の目をじっと睨み付けた。
かすかに涙が浮かんでいるようだ。
「姉上は結婚するのです。奇妙。祝福してくれますね。」
「・・・。」
「姉上は浅井の殿様の妻として幸せな生活を送ることになったのですよ。」
「・・・。」
「奇妙がまた稽古をサボるようだったら、姉上は近江から飛んできて叱りつけてやりますよ。」
「・・・。」
「でもそんなことをしたら、姉上は浅井の殿様から離縁されてしまいます。」
「・・・。」
「それでは姉上は幸せになれません。不幸になってしまいます。」
「・・・。」
「奇妙。」
「・・・。」
「・・・。」
「き、奇妙は稽古をします。毎日稽古をします。約束しま・・・。」
ぎゅっと抱きしめられた。
抱きしめながら姉上様の肩はゆれていた。

しばらくしてから姉上様は奇妙を離すと立ち上がった。
そして、もう一度微笑むとこう言った。
「奇妙。このことは未だ内緒ですよ。父上様がお話になられるまでは誰にも喋ってはなりませぬよ。」
「はい。」
そうして姉上様もしずしずと去っていった。

どがどがどが・・・どだん。
何かが木の上から落ちてきた。
猿だ。
いや、猿ではない。猿だ。
そうじゃない。
皆が「猿」と呼んでいる男が落ちてきたのだ。
猿は泣いていた。
奇妙にじっと見られているのに気がつくと一礼をして走り去っていった。
何なんだ。

奇妙もこの場を離れることにした。
土塀のかどをまわると・・・人が居た。
この男も知っている。
皆が権六と呼んでいる。
権六は土塀に頭を打ち付けながら泣いていた。
奇妙にも気づかない様子であった。

何なんだ。
今日、奇妙は自分がなんだかひとつ大人になったような気がしたが、やはり大人ってなんだかよくわからなかった。

(完)



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