三國志VII 奮闘記 18

 


222年-3月

於我(おが)は、魏の大軍を前に、立ち尽くしていた。
全身が、敵兵の返り血で真っ赤に染まっている。
「くそ、魏のどこにこんな大軍を動かす底力が残っていたのだ…」
於我は、荒い息を整えながらつぶやくように言った。
その傍らに、蔡援紀(さいえんき)がいた。
彼女も、早朝からの激戦に疲労の色が強く見受けられる。
しかし、その目は前方、敵軍に向けられたままだ。

2人は、徐州・カヒ城から南へ数十里の地点にある、小さな砦を守っていた。
南の建業が、魏の攻撃を受けたと聞き、
拠点の徐州城に幽壱(ゆうわん)、丁奉らを残し、援軍に向かおうとしたところを、
まんまと魏の伏兵に取り囲まれてしまったのである。
5万の兵のうち半数が討たれ、2人は必死で近くにある砦へ逃れた。
そこには、わずかな守備兵のほか、付近の村人たちが逃げ込んでいた。
魏が攻めてくると聞き、その略奪を恐れてのことであった。
砦には、2万人の兵が立て篭もれるほどの余裕がなかった。
於我らは、仕方なく負傷した兵だけを砦に入れ、
魏軍の攻撃から砦を守るように布陣した。

魏軍は、倍以上の兵力で砦を囲んでいた。
そして、じりじりと包囲を狭めると、一斉に攻撃を仕掛けてきた。
於我軍は幾度か撃退したものの、退いては攻めかけ、
退いては攻めかける魏軍の戦法に、休む暇もない有様であった。
敵軍の指揮官は徐晃、曹彰、呂岱、楽リンらであった。
「於我殿、また来る!」
蔡援紀が言った。
魏軍が、じりじりとにじり寄ってきていた。
於我は頷き、手綱を握った。


――― 火は、今まさに目の前で燃え尽きようとしていた。
一瞬、大きく燃えさかったと思うと、急に小さくなり、すうっと消え入った。
徐州北方の小山…。
は一日中、小さな火を焚いては、
その場にじっと座ったまま、消え去るのを見つめていた。
紋次郎が戦死してから3日、幾度となく攻撃を仕掛け、突破を試みたが、
ことごとく失敗に終わり、その度に山頂に追い返された。
戦死者の数も膨れ上がり、空腹のあまり逃亡する兵もいた。
どうにもならない戦況と、紋次郎を死なせたことへの自責の念が、私を襲った。
連日焚火をし、その燃えるさまを見続けた。
陸遜、上総介(かずさのすけ)諸葛靖(しょかつせい)が幾度かなだめに来たが、
私には、何も耳に入らなかった。
今の私には、ひたすら時をむなしく過ごすことだけが
最善であるように思われた。

 

――― 紺碧空(こんぺきくう)は、建業の城に立て篭もっていた。
北に魏軍の不穏な動きあり、との報をうけた紺碧空は、
同僚の
許西夏(きょせいかとともに出陣の準備をしていた矢先、
寿春の夏侯惇軍10万の攻撃を受けたのである。
野外戦では、味方の馬忠が夏侯惇に一騎討ちを挑んだものの、
一刀のもとに斬り捨てられ、その勢いで紺碧空らは大敗し、
城内へ退き返したのである。
魏軍は、城を取り囲んだ。
「紺碧空殿、俺が夏侯惇を討つ。出撃しよう」
王双なる猛将がいった。
しかし、紺碧空はなかなか首を縦にふらなかった。
馬忠が討たれた今、城内には陸績、厳シュンといった文官しかおらず、
王双以外に兵を率いるのに長けた者がいないのである。
また、紺碧空も許西夏も、どちらかというと文官であり、
兵数においては同程度といえども、
百戦練磨の夏侯惇軍に勝てる自信はなかった。
夏侯惇の武勇は王双をも上回ると思われ、
また王双ひとりが奮戦しようと、
魏軍の包囲を打ち破れるとは到底思えなかったのである。
紺碧空は窓辺に立ち、城外を見やった。
「夏侯」の旗の下に、片目の大男がおり、身じろぎもせず立っている。
その隣に、細面の女がいた。
紺碧空は、その女の顔に、なんとなく見覚えがあった。
「あれは…西涼の……そうだ。伏姫(ふせひめ)だ。
 たしか、夏侯惇の娘といったな…」
哲坊軍が、馬騰軍を涼州で破ってから、10年が過ぎようとしていた。
「どうした?紺碧空殿」
許西夏が歩み寄ってきた。
「貴殿は、あのとき安定に残っていたから知らぬかもしれんな。
 あの女子は、夏侯惇の娘で、かつてわが軍と戦った馬騰軍の将でもあった」
「そうなのか…」
日が暮れようとしていた。
夏侯惇は相変わらず、微動だにしない。
彼らは、ここを無理に攻めようとはせず、
包囲するだけが目的のようである。
そうなれば、当然、徐州には別働隊が向かっている筈である。
紺碧空は、魏軍の周到さに舌を巻いた。

3日が過ぎた。
魏軍は攻めて来るわけでもなく、
幾度となく、口汚く紺碧空や許西夏を罵ったり、
裸で昼寝をするなどして、挑発を繰り返した。
城内の兵の怒りは頂点に達しているばかりか、
北方の戦況を心配する声が高まっていた。
それでも紺碧空は動かなかった。
賭けていたのだ。
もう少し粘れば、廬江や呉から援軍が来てくれるであろうことに…。
それまでは、下手に動いて兵力を消耗させてはならない。
紺碧空は、王双や兵らの怨嗟の声に、じっと耐えた。


いくら奮闘を続けようと、敵の数はいっこうに減る気配がなかった。
それどころか、西からは次々と新手が投入されてきているように思われた。
蔡援紀は、疲労のあまり、体の節々が鉛のように重くなるのを感じていた。
「蔡援紀殿、大丈夫か?」
於我が、声を発した。
「ええ、なんとか…」
蔡援紀は少し無理をして笑った。
味方の兵は次々と倒れ、満足に戦える者はわずか数千程度と思われた。
「よし、ひとまず退けい!」
於我はやむなく、砦への撤退命令を下した。
将兵らは砦へ次々と退いた。
小さな砦である。せいぜい持って数日間だろう、と蔡援紀は思った。
兵のほとんどが入ったのを見届け、彼女は自分も砦へ入ろうとした。
が、振り返ると、於我が敵軍の方へと戻っていくではないか!
「於我殿?!」
蔡援紀は呼びとめた。
於我は振り向いた。
「逃げ遅れた兵たちがいるのだ。行って、助け戻して参る」
前方を見やると、数十人の兵らが敵兵に囲まれて右往左往している。
「すぐ戻る、先に行ってくれい」
「待って。ひとりでは危険すぎる」
「彼らを見殺しにはできん。拙者の戦いぶり、そこで見ていてくれ」
於我は、蔡援紀の顔を見つめた。
「貴君とともに戦えたこと、嬉しく思う」
「えっ!」
於我殿はにやりと笑うと、一気に駆け出した。

於我は、右脚と肩のあたりに、傷を負っていた。
肩からはとめどなく血が溢れ出していたが、
気力を振り絞って馬を飛ばした。
於我は、すさまじい形相で、味方の兵を囲んでいる敵軍に突進した。
振り回す大刀の前に敵兵は次々と倒れ、逃げ散った。
「於我様!」
「於我さまぁ!」
逃げ遅れた兵士たちが、安堵の声を漏らす。
「さあ、砦へ戻るのだ!」
於我は、敵兵を蹴散らしながら叫んだ。
「おお!於我様とともにぃ!!」
「よし、いいぞ」
しかし、その帰路にはすでに数百ほどの敵軍が回り込んでいた。
「ふふ、わずか数十人の兵に大げさなことよ。このまま突っ切るぞ!」
於我は、号令した。
「うおおーっ」
味方の兵は反転し、力を得て突進する。
敵兵らは、その勢いにもろくも崩れた。

しかし、その退路に立ちはだかった1人の男が、
於我の兵らを次々と斬り捨てた。
「俺は呂岱。於我、逃がさんぞ!!」
「うぬっ、貴様…!」
怒った於我は、呂岱に斬りかかった。
数合斬り結んだ挙句、於我の一撃が呂岱の首を跳ね飛ばした。
しかし、敵兵らの包囲はますます堅くなっていた。
於我は、味方の兵を叱咤しつつ、包囲を抜けようと奮戦した。
どうあっても、於我を砦に行かせないらしい。
やがて、味方の兵はすべて倒れていた。
「ちい…皆死なせてしまうとは…」
敵兵に遮られ、砦の姿は見えなくなっていた。
「どうやら、これまでのようだな」
於我は、立ち尽くした。

「於我殿」
どこからか、呼びかける声が聞こえた。
於我は振り返った。
兵の間を割って、馬に乗った1人の男が進み出た。

見覚えのある顔だった。
「……?」
「私をお忘れか、於我殿」
「………新荘(しんじょう)殿!」
於我は唖然とした顔で叫んだ。
「久しぶりですな、於我殿」
「新荘殿…」
於我は旧友と知り、一瞬笑みを見せたが、
すぐに険しい顔に戻り、いった。
「敵軍の将が何用か」
「貴公を迎えに参った」
新荘は静かに答えた。
「拙者を、迎えに…?」
「そうだ。この状況を見よ。もはや逃げ場はない。
 魏に仕えんか?貴殿が望めば、だが」
「…断る」
「やはりな。貴公がそう簡単に降るわけがないと思っていた」
「そこをどけ。どかぬと、旧友といえども容赦はせぬ」
新荘は、やや表情を曇らせた。
「なあ、於我殿。哲坊のごとき男に何故そこまでこだわる?
 奴は政治を知らぬばかりか、身の程知らずだ。
 あの男ほど治世の常識を覆した者はおらんぞ」
「何が言いたいのだ」
「まあ聞け。貴公らは、このまま天下統一し、国を治めていくつもりなのか?」
「……」
「哲坊の軍はわが魏にとって脅威だが、この国全体にとっても
 脅威なのだ。招かれざる客なのだ」
「招かれざる客…」
「さあ、ここでは長話もできまい。私と一緒にくれば、向こうの砦の兵らも
 皆命を救ってやるように、軍師殿に口添えしよう」
於我は、しばし考えこんでいたが、やがて首を横に振っていった。
「もはや敗れた。砦は貴公らの裁量に委ねる。
 拙者はただ、武人のつとめを果たすのみ。いざ!」
於我は、刀を構えた。
すると、横あいから一直線に於我に迫ってきた者がある。
「俺は魏王が息子、曹彰!
 武人ならぐだぐだぬかしてないで、戦え!!」
曹彰は、新荘が何か言いかけるのを無視して、於我に喚きかかった。
於我は、その一撃をかろうじて受け止め、反撃に転じた。
腕が痺れていた。
恐ろしい怪力を誇る、手強い相手だ。
肩が痛い。
勝つ自信はなかったが、於我は、もてる力を振り絞って応戦した。
雑兵らは、ただ固唾を飲んで見守っている。
新荘は、複雑な表情で見つめていた。

死闘が終わった。
於我の大刀が、曹彰の胸板を刺し貫いていた。
が、曹彰の剣も寸前で、於我のわき腹をえぐっていた。
両者は、馬から落ちた。曹彰は絶命していた。

間を置いて、於我は腹を押さえながらも、
よろよろと立ち上がった。
新荘は、まだその場を動いていなかった。
「於我殿…」
新荘の隣に漆黒の鎧をまとった武将が現れていた。
「新荘殿。ここは文官の出る幕ではない。下がっていていただきたい」
黒衣の男が前に進み出た。
「徐晃殿。私は、あの男を…」
「……武人の心意気、分かってやりましょう」
徐晃は静かに言い、腕をサッと振り上げた。
じっとしていた兵らが、於我に群がった。

於我は、しばし微動だにしなかったが、
突然動き出すと、瞬く間に数人を斬った。

長槍を持った兵らが於我を囲んでいた。
兵らは、得物を突き出した。
無数の長槍が、於我の体を貫いた。
「ご…主君…お先…に………」
於我はかすかに声を発すると、大刀を落とし、倒れた。
哲坊軍旗揚げ以来の功臣・於我は死んだ。51歳だった。
その日の夜、砦は落ちた。

翌日、建業から援軍が来た。
建業は夏侯惇軍に囲まれていたが、やがて呉から加礼王(かれいおう)
孟獲、祝融、沙摩柯、廬江からも徐盛、潘濬らの援軍が到着した。
夏侯惇、伏姫らは包囲を諦め、兵を退いた。
紺碧空、許西夏らは、加礼王、孟獲らと合流し、徐州へ向かった。

徐晃、新荘の軍は、呂岱と曹彰を討たれたため、
小沛へ引き揚げた後だった。
紺碧空らは、徐州南部の魏兵を蹴散らし、
カヒ城を救い、幽壱と合流し、さらに北上した。


さらに3日が過ぎた。
「義兄、ふもとが騒がしくなって参りました」
諸葛靖が、私の耳に顔を寄せていった。
私は、はっとして立ち上がり、ふもとを見た。
「殿!援軍です!」
上総介が嬉々として叫んだ。
太郎丸(たろうまる)殿が、援軍を連れてきてくれたのですね」
青州からの援軍が、魏軍の背後を突いた。
予測はしていたのだろう。魏軍は応戦している。
「よし…全軍、山を降りるぞ。死ぬ気で戦え!」
わが軍は、疲労も空腹も忘れ、山を駆け下りた。
乱戦になった。
青州からの援軍は、餡梨(あんり)荒賢(こうけん)
セバス伊那猫(いなねこ)の軍勢であった。
たけなわの頃、南からも加勢が来た。
徐州、建業からの援軍と知れた。

数で勝ったわが軍は、魏軍を次第に追い詰めた。
乱戦の中、奮闘を続ける敵将がいた。
猛将・曹仁であった。
荒賢が両刀で立ち向かった。
が、弾き返された。
すかさず、王双、餡梨、セバスが取り囲んだ。
曹仁が逃がれる。
その行く手を、周泰がふさいだ。
周泰の戟が命中し、曹仁は落馬した。
そこをわが軍の兵らが襲いかかり、とどめをさした。
張コウは、孟獲、祝融が2人がかりで戦ったが、
あと一歩のところで取り逃がしていた。
わが軍は追撃を仕掛けた。
司馬懿の本隊に追いすがったが、残念ながら取り逃がした。

私はカヒ城に入った。
援軍を含めた全軍を招集し、労った。
於我の死を知らされた。
なんとか凌いだが、犠牲の大き過ぎる戦いであった。
これまでの祝勝会とは違い、将兵らの顔は、
いつになく暗く沈みがちであった。

秋になる頃、荒れ果てた領地は徐々に回復していたが、
私は、紋次郎、於我を失った衝撃から、いまだに立ち直っていなかった。
そして、行方知れずとなった蔡援紀のことも気がかりであった。

223年-1月

年が明けると、大陸を揺るがすほどの報告が入った。
魏王の曹操が病死したのである。
曹丕が跡をついだものの、
魏の動揺は激しく、交戦中だった韓(劉備軍)との戦に
ことごとく敗れ、著しく領地を縮小してしまった。

私は、何故かとてつもない寂寥感に襲われた。
志は違えど、同時代を生きた男たちが、次々と世を去ってゆく…。
私は何もする気が起きず、床に伏した。

 

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