三國志VII 奮闘記 22

 


227年-10月

およそ400年前、始皇帝・政が君臨した秦の都・咸陽
(かんよう)
後に、楚王・項羽によって徹底的に破壊されたものの、
長安の東にある小高い山・始皇帝陵は、今なお高くそびえる。
そして、その地下には広大な地下宮殿があるという…。

は、巨大な陵墓を目前にし、馬を止めていた。
もう少し行けば、兵らが掘り進めた地下への入口に辿り付く。
「殿、いざ、お進みくだされ」
傍らの
紺碧空(こんぺきくう)がいった。
私は頷き、もう一度陵墓を見上げると、馬に鞭をくれた。


函谷関の戦いで韓を打ち破り、洛陽を攻略後、
私は弘農にて重臣らと評定を催した。
「以前もいったとおり、私は長安でやり残したことがある。
 よって、この先は皆の力で、中華統一を成し遂げてほしい」
私は壇上から皆の顔を見渡しながらいった。
すると
上総介(かずさのすけ)が、
「ここまで来たら中華統一は目前。殿、最後までご采配を…」
と進み出ていった。
「私は倭人だ。大陸の人間ではない。
 統一の最後の仕上げは、やはり中華の人間がなすべきと思うのだ。
 諸葛靖が生きておれば、私は彼女に後任するつもりであったのだが…」
私は目を閉じながらそれに答えた。
「では、ご主君。後継は誰に…」
猛将・
荒賢(こうけん)がいった。
「荒賢か。お主、やってみるか?」
「いや…俺は政など…」
荒賢はやや後ずさり、戸惑ったような顔をした。
「皆は、誰が適任と思うか」
すると、
許西夏(きょせいか)が静かにいった。
「私も宿将の諸葛靖殿こそふさわしいと思っていたのですが…
 彼女亡き今、洛陽の太守・陸遜殿がよろしいでしょう」
「ふむ…陸遜ほどの智謀の持ち主ならば適任だろうな。他には?」
古参武将・
太郎丸(たろうまる)が進み出て具申した。
「なんとかご嫡男の
幸村(ゆきむら)殿を捕らえ、後継ぎにできぬものでしょうか」
「ああ、幸村殿ならば…」
「しかし、奴は徐盛殿はじめ、多くのわが軍の兵の命を奪った男だぞ」
「いや、
新荘(しんじょう)の呪縛から解かれ、ご主君との父子の契りが交わされたなら、
 これまでのことは水に流し、幸村殿を主君としてお仕えするもやぶさかではない」
「そうだ。跡継ぎは嫡子をもって本流とするのが、後の災いを避けるに良策である」
「だが、どうする?奴を捕らえるのは、殺すより難しいぞ。
 現に荒賢殿ほどの猛者でも、一合と打ち合わずに敗れたではないか」
重臣らは、口々に意見を唱えはじめた。
私はいった。
「待て…いや、奴は倭に連れ帰ろうと思っている」
「ご主君…しかし、どうやって…」
「確かに難しいな。まあ、それは成るようにしかなるまい。
 後継ぎは、ここにいる者の中から選出したいと思う」
一座は、静まり返った。
やや間をおき、
加礼王(かれいおう)がいった。
「新参だが、姜維はどうだ?」
「姜維か。うむ、確かに若い者に任せるも良いな…」
当の姜維は、黙ったまま何もいわなかった。
すると、
香香(しゃんしゃん)が一礼していった。
「私は孫権殿がよろしいかと…」
「ほう、孫権か。治世術、存在感といい君主の器だ」
伊那猫(いなねこ)が続いた。
「私は、上総介殿を主君としては如何かと存じます…」
「ふむ…」
私は、上総介を見た。
上総介は答えた。
「私は上に立つよりも、補佐に徹したいので…」
「そうか。では上総介、お主は誰がよいと思う」
上総介はしばし考え、いった。
「孫権殿」

その後も、何名かの候補者が挙げられ、評定は深夜まで続いた。
私は、結論を出した。
「では、私の跡を継ぐ人物は孫権とする。
 陸遜、姜維らは、孫権の補佐に当たってほしい」
私は孫権の前に歩みより、いった。
孫権は一度は辞退したが、私が勧めると、ひざまずいて印綬を受けた。
「私は確かに印綬を受けましたが、哲坊殿が使命を達成し、
 わが軍に戻られたときにはすぐにこの印綬を返すおつもりです」
孫権はいった。私は一応うなずき、叫んだ。
「皆、これからは孫権を主君と仰ぐがよい」
皆は拝礼した。

「ではこの先、皆の行く道を教えてくれい。
 孫権について、中華統一の軍に追従するもよし、
 これを機に、軍より身を引くもよいだろう」
まず上総介が答えた。
「私は、先の戦で、
びーさるを討ちもらしたため、このまま戦を続けとう存じます」
「よし。では上総介は、孫権に軍師として従うがよい。
 他に孫権、上総介に従い、中華統一を遂げたいものは?」
「この伊那猫も、戦場での死を望みますゆえ…」
「では、我らも…」
伊那猫、太郎丸、荒賢だった。
「良いだろう。上総介を助け、思うさま戦場で暴れるがよい。
 ただ伊那猫よ。命を粗末にするでないぞ。…他の者は如何する?」

一寸間をおいて、香香がいった。
「私は、孤児や老人たちの世話をしたく、元いた洛陽の街に戻りたいのですが」
「そうか。感心であるな。好きにするがよい」
続いて、香香とともに許西夏、
翠火(すいか)も軍を退き、街へ戻るといった。
「殿…」
声を上げるものがあった。
諸葛音(しょかつおん)だった。
「おお、そちは如何する?」
「私も軍を退き、この人形とともに平穏な暮らしをしたいと思うのですが」
「うむ、わが領内、とくに荊州ならば安心だ。
 その人形を、腕の良い職人に見せ、様々な人形を作らせるとよい。
 人形鑑賞展などをやれば、人々は喜ぶであろう」

雅昭(がしょう)殿、豊水は、わが使命を手伝ってもらわねばならんが…
 
紺碧空(こんぺきくう)幽壱(ゆうわん)、加礼王、お主たちは如何する?」
「我らは、行くところがありません。ご主君とともに…」
「…ついて来てくれるのか。嬉しいぞ。
 では、あとの者は、孫権軍の天下統一に向け、戦ってほしい!」
評定は終わった。
孫権軍として天下統一に向けて戦い続けるのは、
上総介、太郎丸、荒賢、伊那猫、陸遜、周泰、祝融、姜維、王双、韓当、董允、
劉賢、夏侯覇、丁奉、諸葛瑾、伊籍、馬良、潘濬らといった面々。
軍を退き、下野するのは、
許西夏、香香、翠火、諸葛音。
私とともにやはり軍を退き、地下宮殿を目指すのは、
紺碧空、幽壱、加礼王、豊水、雅昭。
戦い続ける者は、弘農から東へ。軍を去る者は南へ。あるいは西へ…。
それぞれの進むべき道が決まり、翌日は皆で別れの盃を交わした。
これまでの戦いを振り返って感慨にふける者もいれば、
涙して名残を惜しむ者らもいた。
孫権、上総介らは、我々を姿が見えなくなるまで見送ってくれた。

かくして、哲坊軍は事実上、解散となったのである。

この秋から冬にかけ、孫権率いる旧・哲坊軍は進撃を再開。
北海の太守・諸葛瑾は韓領・平原、ギョウを攻略し、
太守の馬ショク、于詮らを捕らえていた。
続いて北平の馬良軍が南皮を落とした。
孫権軍本隊は河内、上党を包囲し、劉禅の篭る晋陽に迫っていた。
227年冬・勢力地図

そして今、私は紺碧空、幽壱、加礼王、豊水、雅昭とともに
兵100名を率い、始皇帝陵入口へと道を急いでいた。
「ん?」
ふと前方を見やると、道の先に数十人の行商人の一群があった。
私は、兵馬を止めた。
代表格とおぼしき男が進み出てきていった。
「哲坊様とお見受けいたしやすが」
男の声に、傍らの幽壱が咄嗟に剣を抜こうと身構えた。
私はそれを制し、
「いかにも哲坊だが、お主は?」
「は…、わしは洛陽の商人・張と申しやす。雲南方面へ商売に行くところでしたが、
 哲坊様がここを通られると聞き、お待ちしておったのです」
商人たちは皆、幕を出て平伏している。
周囲には、なにやら香ばしい匂いが漂っている。
「そうか。して、私に何用か」
「わしは、南蛮の香辛料を研究しているんですが、
 これでこしらえた汁がまた美味でしてなあ。
 ぜひ哲坊様ご一行にも召し上がっていただきたいのです」
「ん?この匂いがそうか」
今まで嗅いだことのないような不思議な匂いだ。しかし、妙に食欲をそそられる。
「よろしければ、是非ご賞味を」
張がいうと、周囲にいた商人らが
ゆっくりと大きな釜を幕から出し、十数個運んできた。
釜の中では、茶色いドロドロした液体が湯気を立てている。
商人らは、それを沢山の碗に丁寧に注いで、そのひとつを私に差し出した。
私はそれを受け取り、尋ねた。
「香ばしい匂いだ。これは、なんという汁なのだ?」
「南蛮の伽哩(かりー)という粉と小麦を湯で溶いたものですだ」
商人のひとりが答えた。
商人らは、後方にいる兵らにも分け与えはじめた。
「…うめぇ!」
ひと口飲んだ加礼王が叫んだ。
「どれ…」
紺碧空、幽壱も、その香りに誘われて口をつけた。
私も、彼らが飲んだのを見てひと口飲んだ。
なんともいえぬ辛味が口中に染み渡る。…旨い。
「これは美味だ!」
私は張にいった。
「お気に召したなら、もう一杯どうぞ」
「おお、もらうぞ!」
一杯目を飲み干した加礼王は、釜に近づき、自分で碗にすくった。
後ろの方では、兵らも喜んで2杯目を飲もうと釜に群がっている。
「さ、哲坊様もどうぞ」
張が、新しい杯を差し出してきた。
私はそれを受け取り、口をつけようとした。
すると、何時の間にか横に立っていた雅昭がいきなり私の手から杯を叩き落とした。
碗は、地面に落ちて割れた。
「雅昭殿、何をするのだ!」
「哲坊殿、騙されてはなりません!この男は…」
はっとして、張の顔を見た。
張は、白い頭巾を巻いており、茶色い顔料を塗っていて元の顔はわからない。
「この男をお忘れか、哲坊殿」
はっとして、張を見た。張が、ニタリと笑った。
「ああ…」
「お前は桂原(けいばら)だろう!何を企んでいる」
雅昭が叫んだ。
「ううっ!」
そのとき、背後で、うめき声が聞こえた。
2杯目の南蛮汁を飲んだ加礼王、紺碧空、そして多くの兵らが、
もがき苦しんで嘔吐している。
「貴様、一服盛ったな!」
「ふはははは。ぬかったわ!見破られるとはな。
 そうだ。わしは真田一族家臣・桂原豊だ!」
「桂原か…私の命を奪いに来たか」
「彩乃の無念、晴らさずにおけようか。
 それと、その背に負っている壺をいただきに来た。あの壺は、いいものだからな」
倭国・人物相関図
桂原の周囲の商人らは、一斉に武器を構えた。
その数、数十人。
見ると、味方の兵はほとんどがもがき苦しんでいる。
2杯目の、毒入りの汁を飲んだのだろう。
「かかれ!」
桂原の号令で、商人軍団が一斉に襲い掛かってきた。
「こうなればやるしかあるまい!」
私は雅昭、幽壱、豊水、そして残った十数人の兵とともに抜刀し、応戦した。


商人らはさほど強くなく、戦い慣れた我々の敵ではなかった。
商人の大半は仲間が次々に討たれるのを見ると、算を乱して逃げ散った。
桂原の姿は、すでになかった。
おそらく、敵わぬと見て逃げたのだろう。

我々は、苦しんでいる者たちに水を与え、介抱した。
「すまねえ…」
加礼王、紺碧空は夕刻になって回復した。

我々は、さらに道を急いだ。
「哲坊殿、見えてきました」
陵墓のふもとからやや離れた場所に番兵小屋があり、
その脇の巨石に、ぽっかりと大穴が空けられていた。
「あれが入口か」
「ん!?」
周囲に、数人の兵が倒れているのが見えた。
「これは、どういうことだ!?」
兵たちは、息があった。我々は助け起こした。
ここの守備にあたっていた兵たちだった。
「何があったのだ!」
幽壱が訊いた。
「申し訳ありません…先ほど…一人の男がやってきて、
 この中に入れろ、というので我らが、見知らぬ者を通すわけにはいかん、
 というと…その男は急に襲いかかってきて…我々数人、
 あっという間に叩きのめされてしまいました…男は剣を背負っていましたが、
 抜くことはありませんでした」
「………」
「素手で4人をあっという間に気絶させるとは…。
 哲坊殿、こんな芸当ができる者といえば幸村殿以外、考えられませんな」
雅昭がいった。
「幸村か……」
「奴は中で待ち構えているようですな…如何します?」
「ここまで来て後には退けぬ。もとより、生きて帰らぬ覚悟だ」
「我らとて、お供いたしますぞ」
幽壱がいった。
「じゃあ、中に入ろうぜ」
加礼王がいい、兵らに火を灯した燭台を持たせた。
私は、倒れていた兵を介抱させた。
「これより先は聖地だ。あまり大勢では立ち入れん。
 十人ほど残り、あとの者は城へ戻るがよい」
私は兵らをその場に残し、地下への階段を下りた。

洞窟の中は兵らが整えたのだろう、階段状になっていた。
注意深く足元を照らし、一歩一歩降ってゆく。
通路は狭く、人がかろうじて2人並んで通れる程度だ。
我々6名は、2列になってそろそろと降りていった。
内部の空気はひんやりと冷たい。
土壁は古いものだが、固く塗り固められ、ここが人口の洞であることを示している。
やがて、道は平坦になった。
長く延びた狭い道幅を、我々は進んだ。
すると急に道が開け、大広間に出た。

「うぉっ!!」
我々一行は、思わず声を上げた。
なんと、この地底深くに、整然と立ち並んだ兵馬の大軍が姿を現したからである。
我々は身構えた。その数は数百、いや数千はいるだろう。
こちらはたった6人。とても太刀打ちできるものではない。
明るい色の土が露出し、洞窟内と、その軍馬を照らしていた。
「ん…?」
「な、なんだ…?」
我々は目を疑った。
その騎馬軍団は微動だにせず、我々を凝視したままでいる。
「こ、これは……像です!兵馬の像です!」
豊水が叫んだ。
「なんだと!?」
確かにその兵士達は動くはずがなかった。
数千の軍隊は、すべて陶でできた等身大の像だったのである。

「見事だ…」
私は、像のひとつに近づいた。
その兵士たちの像は一体一体が等身大、我々とほぼ同じ大きさで造られており、
鎧、兜が精巧に彫られ、武器を身につけ、まるで生きているかのようですらある。
しかも、みな違う表情をしている。
馬や馬車もあった。
それらすべてが、まるで本物のような精巧さであった。
我々はただ、見とれた。
太古の人々が作り上げた、陶の軍勢を呆然と眺めていた。
「始皇帝という奴は、とんでもねえものを造らせたんだな」
加礼王がつぶやいた。
「一体、何年かかったのでしょう…」
紺碧空は兵が握っている本物の武器をしげしげと眺めている。
「これは、始皇帝の墓所を守る秦の軍団を模したものでしょう」
豊水がいった。
「成る程。では始皇帝の墓所も近いというわけですな」
探すと、兵馬軍団の脇に、細い道が口を開けていた。
雅昭の言葉に促されるように、我々は前進した。

細く、長い通路が、永久に続くのではないかと思われるほどのびている。
我々は無言のまま歩いていた。延びた回廊をただ進んでいた。
「…!」
足元に、おびただしいほどの人骨が散乱していた。
無数の矢や、石も転がっていた。
「おそらく、盗掘者らが罠にかかって死んだのでしょう」
「そうか…すると、この者らには感謝せなばならんな…」
我々は、慎重に進んでいった。

やがて、木製の扉が見えた。
こちらに引くと、扉は軋んだ音を立てて開いた。
扉をくぐると、先ほどと同じような大広間があった。
ただ、先ほどと違うのは兵馬の像はなく、広間の奥に
満々と水をたたえた大きな池があることだった。
池の水は、キラキラと光を反射している。
「光…?」
我々の持っている燭台だけではない。
ふと見ると、壁にいくつも掛けられた燭台の上で、火が煌々とゆらめいていた。
「なんということだ…」
「この火は、何百年も前から灯っているというのか…」
「ここが、水銀の池……そして、伝説によれば壁の灯火は人魚の油によって
 保たれているそうです。まさか、本当だったとは…」
豊水が驚嘆しながらも説明した。
我々は、奥に進んだ。
水銀の池の傍まで来た。池の向こうには大きな扉が見える。
しかし、水銀の池は広間の端から端までを埋めており、橋もかかっていない。
「池というより、堀ですな…」
「どうすれば、池の向こうに渡れるのだ…」
私は頭を抱えた。
「どこかに、何か仕掛けがあるはずです」
豊水がいった。
我々は、広間を探索した。
その時、ドォン!という轟音が響くとともに、洞窟内が揺れた。
「な、なんだ今のは!」
「上で、何かあったのでしょうか?」
やがて、揺れがおさまった。
我々は、気を取り直して仕掛けを探した。
「これは、何でしょう」
幽壱が、何かを見つけたようだった。
岩と岩の間に、奇妙な形の陶器が突き出ていた。
「もしやこれが仕掛けでは…?」
「どれ…」
陶器は、短い棒状で、先端が丸くなっていた。
「引いてみよう」
どこかで、ガチっというにぶい音がした。
やがて、池の方からゴゴゴゴ…という振動が沸き起こったかと思うと、
水銀の池は大きな波を立てて左右に割れた。
池の底から地面がせり上がり、橋が姿を現したのである。

その頃…。
孫権率いる大軍は晋陽を包囲していた。
227年冬・勢力地図
韓の皇帝・劉禅は、孫権軍のあまりの威容に腰を抜かし、
程なくして重臣らの諌めも聞かずに降伏を受け入れた。

やがて冬が訪れ、そして年が明けた。
228年春、寿春の太守・韓当が魏領・ショウを攻めた。
皇帝・曹叡以下、司馬師、司馬昭、陳グン、曹爽、曹植らは
最後まで激しい抵抗を示したが、上総介、太郎丸、伊那猫、
荒賢ら率いる大軍によって陥落。曹叡らはこぞって降伏し、魏は滅亡した。

残るは、劉禅降伏後も奮闘を続ける諸葛亮の軍のみとなった。
しかし、諸葛亮は持ち前の軍略で趙雲、張苞らとともに陳留、撲陽を粘り強く死守、
さすがの孫権軍も手を焼き、持久戦の様相を呈していた。

 

地下宮殿の奥深く、天井も壁も黄金色の輝きに満ちた大広間に、
その玉座の間はあった。
私は額に滲む汗を、泥まみれとなった手の甲で拭った。
気が付くと、ひとりであった。
水銀の池を渡ってまもなく、仲間とはぐれてしまった。
地下宮殿は、まさに迷宮であった。
手にもっていた松明の火も消え、壁にこびりついた光苔だけが道しるべとなった。
仲間たちとは、あるいは分かれ道で別れ、
あるいは暗闇の中で、いつしか離れてしまっていた。
いくら叫んでも、仲間から返事はなかった。

私は狭い扉を潜り、背負っていた龍の方壺を下ろした。
壺は紺碧空の用意した虎の毛皮にくるまれている。
大広間の奥の石段を登り、
向かい合わせに置かれた玉座の中央に、ゆっくりと歩み寄った。
すると、2つの玉座の間の床に、人の頭ほどの窪みがあることに気づいた。
前方の壁には、小さな扉がついている。
開けようとて、手を止めた。
「わが眠りを妨げし者には、大いなる不幸が訪れよう」
扉には小さな文字でそう刻まれていたからだ。
私は足元を見た。
窪みには、私が持っている壺がぴったりとはまりそうだ。
私は、壺を包みから取り出し、迷わず窪みに置こうとした。その時…
「待たれよ!!」
大きな声が、広間に響き渡った。
私は驚いて手を止め、入口の方を見やった。
そこには、何時の間に入ったのか2人の人間、
いかつい顔の大男と痩身の女が立っているではないか。
「何奴!」
私は叫んだ。
「哲坊殿!この婦人をお忘れか!!」
大男は、傍らの女を指し示していった。
2人とも、まじまじと私の顔を見つめたままでいる。
その顔をよく見ようと、私は石段を下り、警戒しながらも彼らに近づいていった。

「おお……」
2人に近づくうち、私は、無意識のうちに驚きの声を発していた。
女の顔を見ていると、薄れていた記憶がどんどんと思い起こされてきたのだ。
幼き日に嗅いだかすかな桜の香りと甘美な記憶……。
2人との距離は、ほんの数十歩まで縮まっていた。
そう…彼女は…まぎれもなく………
「ザッ!」
その時だった。
私の目の前に突然、黒い影が舞い降りたのである。
影は、私の手からたちまち龍の方壺を奪い取って、向き直った。
「幸村!!」
私は狼狽して叫んだ。
影は、わが息子であるはずの、
幸村(ゆきむら)であった。
天井に貼り付いてでもいたのだろうか。
黒装束に身を包み、名高い宝剣・青コウを逆手に握っている。
覆面はしておらず、無表情な眼で私を見つめている。
「何をする、幸村!」
私は叫んだ。
その時、大男が抜刀し、幸村に背後から斬りかかった。
見事な早業だった。しかし幸村は、男の刀が振り下ろされるより先に跳躍し、
私の頭上を越えて、背後に着地していた。
私は、大男と幸村を交互に見やってから、振り向いた。
大男は、どうやら味方のようだ。
幸村は立ち上がり、直立した姿勢でこちらの様子を伺っている。
片手に剣、もう片方の手で壺を抱くように持っていた。
「幸村、その壺を返すのだ!」
「哲坊殿、お下がりくだされ」
男が背後から近づき、私の傍らに立った。
「よせ。貴殿は相当の腕前のようだが、あの幸村には勝てまい」
私は押しとどめようとした。
「いや、話をするだけでござる」
男は、ずんずんと幸村に近づいていった。
幸村は男との距離を一定に保つべく、そろそろと後退する。
「久しぶりだな、幸村殿!この
紫龍(しりゅう)をお忘れか!!」
男は歩みをつづけながら、広間にこだまするほどの大声で叫んだ。
幸村の表情に、変化はなかった。
剣を構えたまま、後退を続けていた。
「幸村殿。拙者は昔、貴殿とともに河北で武術の稽古をした!
 そして旅の道中、盗賊団に襲われた貴殿と諸葛音殿の命を救った紫龍だ!」
幸村の表情に、一瞬戸惑いのような表情が浮かんだ。
が、すぐにそれは消え、もとの無表情な顔に戻った。
「まだ思い出していただけぬのか!」
紫龍が歩を止めた。そして私と女の方を振り返ろうとしたとき、
幸村が紫龍に襲いかかった。
ガキン!!
紫龍は、寸前で幸村の剣を受け止めた。
幸村は紫龍に反撃の間を与えず、次の攻撃を繰り出した。
紫龍は、そのすさまじい剣技を前に、かろうじて防戦につとめていた。
「紫龍殿とやら、貴殿をむざむざ殺すわけにはいかん!」
私も腰から長剣を抜き、戦いに割って入った。そのとき…
「やめなさい、幸村!」
細いが、よく通る声がした。女の声であった。
しかし幸村の猛攻に、我々は振り返ることもできなかった。
「うわっ!」
そのうちに、支えきれなくなった紫龍が右腕を傷つけられ、
刀を取り落としてうずくまった。

私は前に出て紫龍をかばい、戦った。
しかし、たちまち長剣を弾き飛ばされ、私は尻餅をついた。
幸村は、私の喉元に剣をつきつけた。
その脇で、紫龍は深手を負った腕を押さえ、うずくまったままでいる。
私は、喉元に、剣の切っ先の冷たい感触を覚えた。背筋に悪寒が走った。
やっとの思いで幸村の顔を見ると、冷ややかだった目が、
先ほど一瞬浮かべた戸惑いのような目に変わっていた。
私を殺すかどうか、躊躇っているのだ。
本来なら、とっくに喉を突かれていてもおかしくないはずだ。
「やめて幸村、実の父を殺す気ですか!」
背後でまた、女の声がした。
突きつけられた剣が、小刻みに震え始めていた。
「お願い、母の言うことを聞いて頂戴…」
幸村の顔に、戸惑いと驚愕の色がはっきり現れていた。
やはり…この女は…。

「うわぁぁぁーっ」
幸村は叫んで剣を取り落とした。
片膝をつき、右手で頭を抱え込んだまま動かなくなった。
私は、尻餅をついたまま、その様子をただ見ていた。
気が付くと背後に、女が立っていた。私は、その顔を見上げた。
「哲坊様…」
女は、声を発した。
「紗弥
(さや)…か?」
私は、女の名を呼んだ。
「覚えていてくださったのですね…」
紗弥は、泣いていた。
「無論だ。30年も記憶を失っていたが、今はすべてを思い出せる…」
私は起き上がり、紗弥の顔を見た。紗弥は、後ずさった。
「もう、若くないですわ」
「それはお互い様だ。いや、あの頃の面影はそのまま。懐かしいのう…」
私はいい、傍らの紫龍を気遣った。
「大丈夫か、紫龍殿」
「は、何とか…」
紗弥が布を取り出して、紫龍の傷口に巻きつけてやった。
「で、紫龍殿。貴殿は…」
「名乗りが遅れ、申し訳ございません。拙者は紫龍と申す一介の武芸者です」
紫龍は名乗り、これまでのいきさつを述べた。
話によれば…紫龍は昔、河北に逗留していた頃に幸村と知り合い、
武芸の稽古をつけてやる仲となった。
その後、幸村は私に会うため、紫龍と諸葛音とともに河北を出た。
しかし洛陽を出たあたりで盗賊団に襲われ、紫龍は幸村と諸葛音を
馬に乗せて逃がし、盗賊団と決死の戦いをした。
外伝3参照
翌朝気が付くと、とある民家の寝台の上だった。
体中が傷だらけだったものの、一命はとりとめた。
手当てをしてくれたのは
条星(じょうせい)という茶人で、彼とは以前、面識があった。
紫龍は条星に恩義を感じ、忠誠を誓った。
条星は、茶人とは仮の姿で、この大陸と倭を行き来し、
情報収集を生業とする男であった。
何年か経った後、倭へ一時帰るという条星について、紫龍は倭へ渡った。
倭は戦争に明け暮れる蛮族らの地という認識であったが、違った。
大陸を真似てこそいるものの、独自の文化をもった国であった。
倭は、その名のとおり広大な領土を持つ倭
(やまと)の国の女王が支配していたが、
隣国の狗奴国
( くなのくに)の豪族らがこれに反乱、各地で戦争が繰り返され、
止むことのない戦乱の世に突入していた。
しかし、ある宝物が何者かにより持ち去られたのをきっかけに戦乱は鎮まった。
その代償として人々は平和に倦み、働く意欲もなくし、文化は停滞していた。
大陸から戻ってきた条星を、倭人たちは歓迎した。
哲坊なる男が勢力を拡大していることや、幸村という凄腕の倭人のことなど、
条星は仲間たちに様々な土産話をした。
ある日、紗弥が条星と紫龍のもとを訪れた。
条星は紗弥を知っていた。以前、書簡をやり取りしたことがあり、
そこで紗弥は自分の子が幸村であることや、
幸村の父が哲坊であることも打ち明けていたのである。
そしてこのとき、いつか2人に会いに行きたいといった。
やがて時が流れ、3人は大陸へ渡る機会を得た。
条星は途中の壹岐国で病にかかり、そこに留まったため、
その命を受けて、紫龍が紗弥をここまで連れてきたというのである。

「条星殿より、始皇帝陵玉座の間の秘密を聞いて参りました。
 それによると、あの玉座に男女1名ずつが座り、その上で龍の方壺を
 中央にはめ込めば、その者らに為すべきことが示される、とのことです」
紫龍が付け加えた。
「なるほど…1人で、ただ壺を置くだけではいかんというわけか…」

幸村を見ると、座ったまま放心状態に陥っているようだった。
目は焦点が合っておらず、言葉をかけても何も反応しなかった。
「衝撃が大きかったようです。しばらく、放っておいてあげましょう」
紗弥の言葉にうなずき、私は、幸村の足元に転がっている、
青コウの剣と壺を拾い上げ、玉座に近寄った。
「では、哲坊殿と紗弥殿は、玉座にお座りくだされ」
紫龍はいい、龍の方壺を私の手から受け取った。
私は、紗弥と向かい合わせに、古代の玉座に座った。
ひんやりとした感触が腰に伝わってきた。
そして紫龍が、壺を足元の窪みにはめ込んだ。

「何も起こらん…」
私がそういったときだった。
閉ざされていた奥の扉が、きしんだ音を立ててゆっくりと開いたのである。
「おお…」
私は座ったまま、右にある扉を覗き込むようにして、見た。
「うわぁっ!!」
そのとき、扉の奥から強い衝撃が紫龍を襲い、彼は階下まで吹き飛ばされた。
「紫龍殿!」
紫龍の体は、階下で座り込んでいた幸村に激突して倒れこんだ。
我々は、立ち上がった。
紫龍も幸村も、倒れたまま動かない。気を失ったのであろうか。
気が付くと、後方から一条の光が差し込み、倒れている幸村の体をとらえていた。
私は振り返った。
扉の奥は、祭壇だった。
中央に大きな棺が置かれ、内部は様々な財宝が並べられている。
棺の前に、水晶の球体が置かれていた。
光は、その水晶から発せられていた。
我々は、その神々しい光景に、身動きできずにいた。
やがて、光に照らされていた幸村が、ゆっくりと身を起こした。
「幸村!」
紗弥が、息子の名を呼んだ。
幸村は光を受けたまま、まぶしそうな顔でこちらを見た。
その表情は、私がこれまで見たことのないものだった。
幸村は、眠りから覚めたかのように、正常な顔になっていた。
私は幸村に近寄ろうとした。
すると、また地鳴りがして、広間は大きな振動に襲われた。
私は足を止めた。
振動は長く、止みそうもない。かろうじて立っていられるほどだった。
私は、紗弥の体を支えてやった。

「父上、なのですか…」
階下から、高い声が響いた。幸村だった。
「幸村…私を、父と呼んでくれるのか…」
私は体勢を保ちながら答えた。
始めて聞くその言葉に、全身が震えるのを感じていた。
「母上も、いるのですね」
「ここに居るわ、幸村」
「父上、母上…お会いしとうございました。光…光でお顔がよく見えませぬ…」
光の向こうで、幸村は泣いているようだった。
紗弥の目にも、私の目にも、涙が浮かんでいた。
「ゴゴゴゴ………」
振動が、いっそう激しくなった。
「うわっ」
我々は、立っていられなくなり、その場に座りこんだ。
天井から、ばらばらと砂が落ち、壁、地面に亀裂が走った。
私は、必死の思いで祭壇を仰ぎ見た。
水晶の中に、おぞましい怪物の姿が映し出されていた。
それは、八本の頭をもった巨大な大蛇
(おろち)であった。
水晶の光は、階下の幸村をずっと捉えていた。
私は理解した。
この怪物こそ、倭に災いをもたらす大蛇。
それを退治すべきは幸村と、水晶球は示しているのだ。
次に、剣の姿が映し出された。
剣…これか。
私は、転がっていた青コウの剣を拾い上げた。
そのとき、ひときわ大きく広間が揺れ、私と紗弥は奥の壁に叩きつけられた。
「父上!母上!」
幸村の呼ぶ声がした。
やっとの思いで身を起こすと、階段の下のところに大きな裂け目が出来、
階下との間を大きく隔てていた。
振動は相変わらず続き、裂け目は徐々にその幅を広げていた。
「父上!」
「幸村!」
親子は、裂け目を挟んで向かい合った。
階上は振動によって陥没し、階下との高低差は無くなっていた。
「父上…!」
幸村は、私をただ呼ぶばかりであった。
近づこうとしても、裂け目がそれを隔てているのだ。
裂け目の中には、黒い闇が広がっていた。
「幸村よ!この剣をもって倭へ渡り、いずれ現れる八頭の大蛇を退治するのだ!」
私は、青コウの剣を幸村のもとへ投げた。
剣は、幸村の足もとの地面に突き刺さった。
「父上とともに、参りとうございます」
幸村は叫んだ。
「もう、かなわぬ。幸村、これにて今生の別れぞ。
 それより、そこにいる紫龍を助けてやるのだ。その者とともに、早く脱出せよ!」
幸村は、傍に倒れたままの紫龍を見、駆け寄った。
私は、紗弥を助け起こした。
広間は不気味な音をともなって絶え間なく振動し、
我々のいる祭壇の間は地の底へと沈没していく。
水晶は、もう光を発しなくなっていた。
ついに祭壇の間は、幸村たちのいる階下より低い位置になった。
「父上っ!!」
幸村が裂け目の淵へ寄ってきて叫んだ。
「幸村、最後に父と呼んでくれたこと、嬉しく思うぞ。
 さあ、早く脱出せねば、お主らも地に呑まれるぞ」
私は頭上を見上げ、沈み行く玉座に手をかけながら叫んだ。
祭壇の間は、下降を続けていた。
「哲坊様…」
紗弥が手を握ってくる。
私は紗弥を抱きしめ、その目を見つめた。
「今まですまなかった。地の底では、ずっと一緒じゃ…」
「嬉しゅうございます」
紗弥が答えた。
「父上!母上!…」
幸村の声が、頭上から響いていた。
「さらばだ。達者で暮らせよ、幸村」
私は最後に一声叫ぶと、紗弥を抱きしめたまま、
沈みゆく祭壇の間から、離れてゆく幸村の顔を見上げていた。


ずぅーーーーん……
腹に響きわたるような音を残し、始皇帝陵は振動を止めた。

「派手にやったのう…しかし、新兵器の火薬がこれほどまでに強力とは…」
始皇帝陵を見上げ、司馬懿は傍らの男にいった。
背後には数百人の兵が整列し、同じように陵を見上げていた。
「うむ…。この国のためには…哲坊には、生きていてもらっては困るからな」
男は、淡々とした口調で答えた。
しかし、その表情にはどことなく寂しさのようなものが伺える。
「書記官よ、哲坊の名を史書から削る作業は進んでおろうな」
「は……滞りなく。しかしながら、新荘(しんじょう)様。
 私は哲坊や幸村という男の祖国・倭へ一度行ってみたくなりました」
書記官は答えた。
「ふむ…」
新荘は浮かぬ顔をしたまま答えた。
「願わくば倭への道程を、後世の人間のために書き残しておきたく存じます。
 ご存知ならば、お教え願えませぬか?」
書記官は筆をとりながら尋ねた。
「私は行った事は無いのだが、幼い日より父より教わっていたからな。
 うむ、いいだろう。倭へ行くには、中華の北岸・楽狼から南の狗邪韓國へ至り、
 始めて海へ渡ること千余里……」
書記官は、新荘の言葉を次々に書き写していった。


228年-8月

孫権、陸遜、姜維、上総介、太郎丸、荒賢、伊那猫らの軍勢50万は、
諸葛亮軍の立て篭もる陳留を包囲していた。
主・劉禅降伏後も、粘り強く抗戦を続けていた諸葛亮は、
みだりに兵を討ち死にさせるよりはと、
ここに至り、ついに孫権の降伏勧告を受け入れた。
228年8月、孫権は各地に残る魏、韓の残存勢力を掃討し、
ここに天下統一を達成した。

中華統一・地図

人々は、統一を成し遂げたのは哲坊軍であり、
最後まで哲坊が指揮をとっているものだと信じていた。
しかしその後、哲坊が人々の前に姿を現すことは、遂になかったのである。
人々は哲坊を「姿なき覇王」と呼んだ…。

232年-5月

孫権率いる「哲坊軍」の天下統一から4年が経とうとしていた。
しかし、一度まとまった大陸は、再び分裂しようとしていた。

中華統一を果たした孫権は、元魏の首脳・司馬一族らと対立し、
陸遜らとともに、故郷である呉へ帰還した。
そして諸葛亮も、元の主・劉禅をともなって蜀の地へ赴き、
姜維らとともに司馬氏追討の兵を挙げた。
ここに、大陸は3つに分裂したのである。


それから数ヶ月後…
「新荘殿!」
「おお、
伯虎(たけとら)殿か。今日は何用かな」
ある日、荊州の山奥に隠棲する新荘の庵に、伯虎が訪れていた。
「先日、7人の男たちが、東の海岸より海を渡っていったそうだ」
「ほう……」
新荘は、湯呑みを置いて伯虎を振り返った。
「その7人とは…?」
「噂によると…赤い兜をかぶり、背中に見事な長剣を携えた男と、
 身に虎の毛皮をまとった男、ほかに恰幅の良い男、
 いかつい顔の男などがいたらしい。わかるかな、新荘殿」
「うむ…その7名とは、幸村、紺碧空、加礼王、紫龍、
 幽壱、豊水、雅昭であろう。ふふふ…なんと、生きておったか…」
「ははは。さすがは新荘殿」
伯虎は、新荘の前に、どっかと腰をおろした。
「さて、その者らが倭で何を為すのかのう…楽しみじゃて」
「それも伝に書きますか?」
傍らにいた書記官が、新荘に尋ねた。
「いや…無用じゃ。お主はわしの言うことだけを書けばよいのだ」
新荘は立ち上がり、庵の外に出た。
「思えばわしの一生は、哲坊とは決して交わることのないものじゃった。
 だが…わしの名もやがて、あの男と同じように
 民の記憶から消え去ることだろうな……」
新荘は、空を見上げた。

再び戦乱の世が訪れた大陸には、雲ひとつない青空が広がっていた。

(了)


あとがき