三國志VII 奮闘記 3

 

旗揚げの地・零陵から、かつての主・劉表に刃を向けた哲坊。
初采配を勝利で飾り、見事に桂陽を奪取したが…。


 

202年-2月

劉表軍を辛くも撃ち破り、桂陽を手に入れたわが軍だが、
先の戦では兵力の3分の1を失い、また国を治めるための人材も決して充分とはいえない。
はしばらくの間、軍備の増強と人材捜索に力を注ぐよう、家臣らに命じた。
結果、
曹操に追われ、天水に逃れていた張繍(ちょうしゅう)と、
密かに主君に不満を抱いていたらしい楊秋
(ようしゅう)を、馬騰から引き抜いた。
両人とも、そこそこの実力を持った武人である。
夏には、江東の孫策の客将となっていた、許劭
(きょしょう)という人物を
引き抜いた。これは、先頃わが軍に入った
紺碧空(こんぺきくう)の手柄である。
紺碧空は、わが軍中でも、なかなかに頭のきれる男である。
何故か虎に憧れているようであるが。

その間、天下の趨勢は…。
五斗米道という新興宗教を大陸に広めつつあった
張魯が、
馬騰によって攻め滅ぼされ、また、先頃「皇帝」を僭称した袁術が、
孫策軍の猛攻により倒されたと聞く。
国は滅びたが、袁術は玉璽を持ったまま逃亡中という。

その孫策だが、今やついに江東一帯を制覇。
配下には、若き軍師・周瑜をはじめ、張昭、諸葛瑾、太史慈、黄蓋、程普といった
知将・猛将を数多く抱え、「小覇王」の名を不動のものとしている。
そして、孫策と並び天下にその名を轟かせている勢力は、
曹操だろう。
都の長安・洛陽を手中にし、中原に覇を唱えるに至った。
夏侯惇、典韋、賈ク、荀イクなど知・武一流の人物はもちろん、
鋭い舌鋒で知られる
新荘剛史(しんじょうこうじ)という男や、
高齢ながら武勇の腕前に自信を持つ
遁我利(とんがり)、
歌を得意とする雨山という個性的な人物も多く抱えているという噂を耳にした。
河北の
袁譚は、父・袁紹の時代に比べると勢いがない。
その他、徐州の
劉備呂布も無気味な存在である。
わが国の南には交州の
士燮の勢力もあるが、こことは今迄の所、友好を
保っている。近頃掴んだ情報によれば、雲南では「白面の書生」の
異名をもつ
幽壱(ゆうわん)という人物が仕官したそうだ。
餡梨(あんり)とともに、動向に注目すべき人物かもしれない。

202年-10月

桂陽の兵力もすでに7万を越えた。
兵馬の訓練も万全である。ところへ、わが軍では主戦派として
通っている
於我(おが)が進言した。
「ご主君。今こそ北の長沙を攻める時かと!」
「うむ…」
私が身を起こしかけた時、
諸葛靖(しょかつせい)が諌めた。
「ここは、今しばらく内政に力を注ぐべきです。しかる後、
 東の孫策と結んでから劉表を攻めても遅くはございませぬ」
すると、どちらかというと穏健派の
太郎丸(たろうまる)も、
「私も諸葛靖殿の意見に賛成です」と口を挟んできた。
紺碧空は ただじっと、皆の様子を伺って含み笑いを浮かべている。
私は一言「機は熟した」と告げ、長沙攻めの命を下した。
有無をいわせぬ口調であった。

ただちに兵馬を整えると、私は於我、紺碧空、張繍とともに
5万の兵を引き連れて長沙へ出陣した。
長沙を守るのは、太守の伊籍以下、劉キ、蔡クン、程銀といった
戦に不馴れな面子と4万の兵。
これなら勝てる、と充分な自信をもって望んだ戦いであった。
しかし、伊籍軍の猛烈な反撃に遭い、わが軍は苦戦を余儀なくされた。
おまけに、戦闘開始の3日後には江陵から敵の援軍6万が到着した。
合計11万の敵勢に囲まれ、逆にこちらが本陣を守るのに精一杯という有り様。
乱戦の中、紺碧空が敵援軍の劉ソウの部隊に捕らえられてしまう。
こちらも蔡中を捕らえたが、敵兵の猛攻は絶え間なく続いた。
わが軍も寡兵でよく粘ったが、戦いは泥沼化し、開始から1月が経過すると、
兵も将も疲れ果てた。私はやむなく撤退命令を下し、
捕虜となった紺碧空と蔡中を交換すると、桂陽へと退いた。
兵の半数を失った、手痛い敗北であった。

「私が愚かであった」
留守を預かっていた諸葛靖、太郎丸に詫びると、
彼等は非難の言葉をなげかけもせず、私の身を案じてくれた。
於我は申し訳なさそうに、部屋の隅でうなだれていた。
兵は失ったが、教訓は得ることができた。

 

203年-1月

「殿!孫策との同盟が成りましたぞ!」
太郎丸がそういって駆け込んで来たのは、私が城内で
呂蒙が推挙した劉巴という人物を引見している時だった。
劉巴は若年ながら、情報収集に長けた貴重な人材である。

長沙での敗戦の後、失った兵力の回復と、内政に力を注ぐと共に、
東の孫策軍と同盟を結ぶために、何度となく使者を遣わしたものだった。
ともあれ、これで南、東は安泰となり、孫策と共同して
劉表を攻撃することが可能となった。

翌月、私は雪辱を果たすべく、再度、長沙に向けて出兵した。
今回は、参軍に諸葛靖、副将として太郎丸、於我を同行させた。
総兵力は7万。諸葛靖の立てた「正面突破」の作戦通りに、
まっすぐ敵陣を目指した。雪辱に燃えるわが軍は、孫策の援軍を
待たずして、劉表軍の砦を次々と陥落させていった。
敵軍は、まだ兵士の調練が万全ではなかったようで、意外なほど脆かった。
乱戦の中、於我は、混乱する部隊を持て余す蔡中に一騎討ちを申し入れ、
打ちかかってきた蔡中を3合で見事に斬り捨てると、続いて、
程銀をも生け捕りにする活躍を見せた。
そのうち、敵の援軍が江陵から到着したが、我々は伏兵をもって
これを迎え撃ち、敵将の劉ソウ、蔡クンを生け捕りにした。
本陣を守る伊籍隊は、騎馬隊を率いる太郎丸が果敢に突撃を繰り返し、壊滅させた。
二度目の長沙攻めは、前年の敗戦を一気に払拭させる大勝利に終わった。

捕虜の程銀、蔡クンは斬り捨て、劉ソウ、伊籍は解き放った。
長沙は獲たが、人物を得ることはかなわなかった。
私は桂陽の太守に許劭を任命し、長沙の城へ入った。

桂陽では趙範という人物が仕官を希望して来たため、登用した。
その頃、呂布が曹操の猛攻を受けて倒された、との情報が入った。
乱世の風雲児・呂布も、曹操の物量作戦に屈したようだ。
しかし聞くところによれば、呂布は密かに逃れ、河北方面を放浪中という。

秋になった。私は先頃、30歳の誕生日を迎えた。
ところへ、紺碧空がやってきて告げた。
「孫策殿との江陵攻めの手配、整いましてございます」
「うむ。でかした」
私は、ぽんと手を打って出陣の触れを出した。

江陵は、太守のカイ良以下、韓嵩、甘寧らが5万の兵力で守備していた。
城へ至るまでの平地には大河が横たわり、守るに易く、攻めるに難い
天然の要害であった。当然、江夏から劉表軍の援軍も来るに違いない。
わが軍だけの力で撃ち破るには困難と判断し、孫策に援軍を頼んだのであった。
私は、零陵から呂蒙を呼び寄せた。江陵を奪るには、彼の水軍が必要であった。
参軍には諸葛靖、以下 於我、太郎丸を連れ出陣した。兵力は7万である。

敵将のうち、甘寧という猛将の武勇は特にすさまじく、
わが軍は彼1人のために早くも苦戦を強いられ、
なかなか敵陣に近付けない。於我が、彼に勝負を挑もうとするのを
私は押しとどめた。彼に勝てる者は、わが軍には残念ながらいない。
私は甘寧が血の気の多い性分と聞き、これを挑発し、引き付ける事に成功した。
その間に、呂蒙、於我、太郎丸は敵陣へ迫る。諸葛靖は後方の本陣を守っている。
しかし、江夏より敵の援軍5万が到着し、行く手を遮った。敵援軍の指揮を執るのは、
なんと、昔親交のあった司馬徽である。いつかは戦う羽目になると思っていたが…。
敵援軍の攻撃はすさまじく、中でも黄忠という老将の、鬼神のごとき武勇には
肝を冷やした。その黄忠や、同じく援軍の将・呉巨の奮戦に、わが軍は危機に陥ったが、
私は、甘寧の部隊を相手どるのに精一杯であった。

そこへ、柴桑から孫策軍が到着した。5日目のことである。
孫策軍は、孫翊、周泰、蒋幹、華佗らが率いる7万。
数において優勢に立ったわが軍は勢いづいた。私が甘寧を、太郎丸と於我が黄忠を
引き付ける間、がら空きとなったカイ良の本陣へ、呂蒙が迫っていた。
呂蒙は孫策軍とともにカイ良に攻撃を加え、これを壊滅せしめた。
甘寧、黄忠らは奮戦していたが、勢いづいたわが軍と孫策軍に挟撃され、
じりじりと兵力を減らしていった。
劉表軍の砦が陥落していく中、ついに私と於我が甘寧を包囲して これを捕らえ、
黄忠は孫策軍の周泰が生け捕りにした。
援軍の司馬徽や伊籍も捕らえ、戦いは終わった。

わが軍の犠牲は大きかったが、甘寧という豪傑を得ることができた。
甘寧とは、私が劉表に仕えていた頃に少々親交があったためでもある。
カイ良は残念ながら、頑として仕官を拒んだため、仕方なく斬った。
やがて、司馬徽が私の前に引き据えられてきた。
私は自ら縄を解いて、昔のように「水鏡先生」と呼んだ。
司馬徽は、昔を思い出したか目を潤ませ、仕官を受け入れた。
呉巨や伊籍、韓嵩は逃亡に成功したようだ。

204年-1月

江陵を得て休息している私を、永安の
上総介(かずさのすけ・おめぐ)
訪ねて来てくれた。彼女の神算ぶりは諸国にも評判だ。
今は衰退しつつある劉璋の配下であり、誠に惜しいことである。

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