三國志VII 奮闘記 外伝1

 

 

「ここは…どこだ?」
少年は、暗闇の中でゆっくりと身を起こし、周りを見回した。

何も見えない。

…やがて、闇に目が慣れてくると、どうやら部屋の中だということが分かった。
部屋の隅には、眠りに落ちる前に自分が食べたと思われる、豚肉の骨が転がっていた。
それで思い出した。

海を、渡っていた。

途中、台風に襲われ、船は沈んだ。
同乗していた何人かは波にのまれたか、自分と同じように、
どこかに流れついたかもしれない。
嵐が去った。気がつくと、眼前には、ただ広大な草原が広がっていた。
ここが、目指していた土地なのかどうかは、分からなかった。
飲まず食わずで、何日も歩いた。
もとより、船とともに、食料も水も沈んでしまった。
3日目、ついに倒れた。

気がつくと、暖かい わら束の上に寝かされていた。
長い静寂ののち、屈強そうな男が入って来て、豚の骨付き肉を目の前に投げた。
それを夢中で平らげると、再び深い眠りについたのだった。

 

…あの男はどこへ行ったのだろう?
少年は、立上がろうとさらに身を起こしかけたが、前のめりに倒れた。
数日間も眠りつづけたのだろうか。体がすっかりなまってしまっている。

「ブルルル…」
その音に、思わずふり返った。馬だ。
わら束の山の向こうに、1頭の馬がつながれていた。
どうやら、ここは馬小屋のようだ。
そばに置いてあった棒切れを杖にして支えながら、ようやく体を起こすと、
少年は馬に歩みよった。

見事な馬だった。
普通の馬よりひとまわり大きく、
なにより際立った特徴は、火のように赤い体毛だった。
「あの人が、乗るのかな…」
少年は、肉を与えてくれた男の顔を思い出そうとした。
しばらく馬にみとれていたが、
反対側に出入口とおぼしき扉を見つけ、その前に歩み寄った。

扉を開けると、菜園があった。
鳥のさえずり声が聞こえる。朝のようだ。

「小僧、目覚めたか」
声のした方を振り向くと、大男が立っていた。あの男だ。
男は、左手に、汲んできたと思われる水の入った壺を抱え、
右手に、大きな槍のような武器を持っていた。
(あとで聞くと、戟(げき)というのだそうだ。)
どちらも、ひどく重そうだが、男はまったく苦にしていないようだった。

「名前は?」
平らな岩に腰を降ろし、茶腕に注いだ水を飲みながら、男が尋ねた。
少年は、困惑した。言葉が分からないのである。
とりあえず、名前を聞かれたのだと思って、
幸村(ゆきむら)
と、男が分け与えた水を受け取り、少年は名乗った。
「ユキムラ…?この国では聞かん名だな。異国の者か?」
少年は答えない。
「言葉がわからんのか…」
男は自分を指さし、「リョフ」と言った。名乗ったようだった。
男は、これ以上面倒を見るのはご免とばかり、「元気になったら、出てゆけ」
と言ったが、言葉が通じない以上、無駄なことと観念したようだった。
呂布は、それ以上幸村に何も言わなかった。
時々、愛馬(例の赤い馬で、名は赤兎という。呂布がそう呼んでいた)に
打ちまたがって出かけ、夕刻になると食事を届けに戻って来た。
食事とともに、書物などがつく日もあった。
これで勉強をしろというのだろうか。
内容はさっぱり分からなかったが、何故か本を読む(というより見る)ことで、
この地の文字が理解できるようになっていく気がした。

幸村は呂布のもとで数週間を過ごした。
言葉も少しずつだが、覚えた。
呂布は、あまり過去を語りたがらなかったが、
十数年前は都で将軍をつとめていたこともあり、
やがて、独立して数多くの戦いをくぐりぬけてきたことを話した。
城を得たが、数年前に失ったとも話した。
幸村は、戦の話を聞くたびに、胸が高鳴るのを感じた。
特に、虎牢関という関で、関羽、張飛、劉備という豪傑らと、
3対1の戦いを演じた時の話を聞いた時には、熱くなった。
いつもは無愛想な呂布も、そういう話をする時は目を輝かせていたような気がする。

適当な長さと固さの棒を与えられた。それで武芸を習った。
呂布の教育は厳しかった。
言うとおりにできないと、容赦なく拳骨が飛んで来た。
しかし、幸村は必死に喰らいついていった。
幸村の呑み込みの早さは、幾度となく、呂布を驚かせたものだった。

ある日、呂布はこざっぱりした服装に着替えると、
「袁譚に仕える。ここを去る」と告げた。
「エンタン?」
「曹操は憎い奴だ。奴を倒すために、袁譚を利用する」
幸村は一緒に行きたいと言った。
呂布は「ついて来るな」と言い、赤兎に飛び乗った。
しかし、幸村をその場に残して行くことに少しは躊躇したのか、
「乗れ」と短く言った。
呂布に抱え上げられて、後ろに乗った。
こんな速いものに乗ったのは、初めてだと思った。
景色を見るゆとりはなく、呂布の腰に、必死にしがみついていた。
ふり落されたら、呂布はきっと自分を置いていってしまうだろう。

途中、山賊の集落を通った。
山賊たちは、呂布の姿を見ると、急いで道を開けた。
命知らずの賊にも会った。大抵の男は、呂布の鋭い眼光だけで
逃げ出していったが、不幸にも戦いを挑んで来た者には、
呂布は容赦なく戟の一撃を見舞った。
圧倒的な強さだった。ひとりで、10人の賊を傷ひとつ負わずに
片付けた日もあった。血を見るのは、幸村は好きでなかったが、
そういう日には、賊の残していった御馳走にありつく事ができた。

数日後、村に入った。
2人は馬を降り、1軒の建物に歩み寄った。
看板に「髭鏡塾」とある。寺小屋というのだそうだ。
呂布が門を乱暴に叩くと、中から口ひげをはやした小柄な中年男が出てきた。
「これはこれは、呂布様。今日はどんなご用件で…」
呂布とは顔見知りのようだが、完全に圧倒されている。
「異国の子だ。海の方で拾った。しばらく面倒を見てやってくれ」
幸村の頭に手を乗せて、呂布は言った。手は、大きくて重かった。
呂布は、そう言って、村の入口へ引き返そうとした。
「あ、あの入塾費のほうは……」
小柄な男が恐る恐る言うと、呂布はギロリとこちらを向いた。
「あ……いや、なんでもないです。はは…」
男の額と腋の下に、汗が滲み出ている。
「出世払いだ」
呂布はそれだけ言うと、幸村の方を1度だけジッと見つめ、
そのまま去っていった。

呂布が去ると、男は、やれやれ、といった表情で幸村を見た。
「名前は?」
「幸村」
「珍しい名前だな。…ま、とにかくこっちに来なさい」
建物の中に通された。中は、いくつかの部屋に別れていたが、
その中の1室には、自分と同じくらいの年の子供が十数人、
床に座り、木でできた台の上の木片に文字を書いていた。
「わしは、髭鏡(しきょう)。この寺小屋で、子供達に学問を教えている」
男は、歩きながら名乗った。
奥の部屋に、2人の男がいた。
若い男は、豊水と名乗った。もともとは ここの塾生だが、成績優秀だったため、
とどまり、教師として子供たちに学問を教えているのだそうだ。
中年の男は、雅昭(がしょう)といった。当代随一の画家だが、戦乱を逃れて、
今はここで、子供たちに絵画を教えているという。物静かな男だった。

寺小屋の裏は、髭鏡が主の袁譚から与えられた屋敷になっていた。
そこには、食客として逗留している者が2人いた。
1人は紫龍(しりゅう)という武芸者。
もう1人は諸葛音(しょかつおん)という女人だった。
ひととおり挨拶させ終わると、髭鏡は幸村を1室に案内し、
「ここで休んでいなさい。じゃあ、わしは授業があるでな。またあとで」
行ってしまった。

幸村は、この塾で髭鏡から読み書きを、豊水から国の情勢を学んだ。
雅昭からは絵や書も習ったが、あまり上手く描けなかった。
豊水の話では、なんでも、この国は400年続いた漢という王朝が
衰退の一途をたどり、それに乗じて民衆や豪族が力をつけ、各地で反乱を起こし、
手がつけられないような乱世に突入してしまっているという。
皇帝は長安という都にいるが、曹操や馬騰といった勢力の下に置かれているそうだ。

「それでな。この幽州も、前は公孫サンという男の領地だったんだけど、
 袁紹様がそいつを滅ぼして、ここを治めるようになったんだ。
 その袁紹様が死んで、今は、息子の袁譚様がこの州の主さ」
豊水は続けて聞かせてくれた。
「髭鏡様は、その袁譚様に仕えているんだね?」
「その通りだ」
「袁譚様の領地は広いの?」
それを聞くと、豊水は「うーん」と考え込んでから、本棚から大きな巻物を
取り出してきて、机の上に広げた。
それは、この大陸の地図だった。
幸村の想像をはるかに越えた広さだった。

「袁紹様が生きていた時は、一番領地が広かった。だけど、
 袁譚様に代わってからは、曹操にだいぶ奪られちまったな…」
「曹操…。呂布様も、曹操を倒すと言っていた。
 曹操は、強いの?」
「強い。とても強いさ。呂布様の城を奪ったのもあいつだ」
「他にも、強い奴はいるの?」
「江東の孫策、西涼の馬騰、交州の士燮…だな」
「ふーん…」
「あ、そうだ。最近、力をつけたのが、荊州の哲坊だな。
 何しろ、たった数年で、荊南(荊州南部)を手に入れちまったんだから」
「哲坊…」
その名前を聞いた時、幸村の脳裏を何かがかすめた。
懐かしいような…不思議な感覚…でも、何なのかはよく分からなかった。

「どうしたんだい?」
豊水は、いつの間にか、じっと考え込んでいた幸村の顔を覗き込んだ。
「あ……その、哲坊ってどんな男なの?」
「僕はよく知らないんだ。隣の屋敷に住む、
 桂原豊殿なら、知っているんじゃないかな」
幸村は、早速桂原豊を訪ねた。目と鼻の先だった。
桂原豊は、かつて大陸各地を探検した経験を持つが、乱世を嫌い、
比較的平穏なここ幽州で、とりあえず袁譚に仕え、腰を落ち着けているのだという。

「哲坊ねえ…。一度、荊州で見かけたことがあるよ。
 でも、そんなに凄い人物には見えなかったなあ…。
 旗揚げの時は於我(おが)諸葛靖(しょかつせい)
 それに数百の兵しかいなかったし…」
桂原豊は、練った小麦粉を固めて蒸した菓子をかじりながら、言った。
「特に、優秀な軍師がいるわけでもないようだし、あの短期間で荊南を
 統一したなんて、奇跡に近いよ。神に操られているとしか思えないな」

幸村は、桂原豊の屋敷を後にしつつ、何故か哲坊という人物に
ひどく興味を覚えていることに気付いた。

「会ってみたい………」
素直な感情だった。

 

 

 

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