二代目毛利両川 yudai先生作

戦国時代、安芸の名将毛利元就は、二男の元春を吉川家に、三男隆景を小早川家に養
子に出して両家の勢力を奪った。元春と隆景は、当主となった兄隆元、その子輝元を
補佐し、覇王豊臣秀吉との講和も早く結び、豊臣政権での階級も高かった。しかし、
秀吉の死後、豊臣政権にかげりが見え始め、五大老の筆頭徳川家康が勢力を伸ばしつ
つあった。
 この頃、同じく五大老であった輝元は家康を牽制しようとした。自分を補佐してく
れた吉川・小早川の両叔父ももうこの世にない。輝元は二人の従弟と会議を開いた。
二人の従弟とは、元春の嫡男元長と、隆景の嫡男秀景であった。
「そなた等はどうすれば良いと思うか?」
「輝元殿、今は毛利の存続を考えるべきにございます。」
「そして、豊臣家も存続させねば………」
「問題は治部殿の器量じゃ。儂が思うに、治部殿には内府のようなはかりごとがない
と思われます。」
「厄介でござるのは、福島、加藤、細川、黒田等にございましょう。」
「それがしも弟等と話し合いましたが………」
「元長、秀景!直ちに元氏、秀包等を呼んで来い!」
「はっ!」
しばらくして、元長が元氏、広家を、秀景が秀秋、秀包を連れて帰ってきた。
「輝元殿!お久しぶりにございます。」
「おう、気楽にせい。」
「輝元殿!」
秀景が声を掛けた。
「何じゃ?」
「儂等は今、内府に内応している身でござる。すなわち、内府は我々には全く油断し
ている………しからば、我等が福島、加藤、細川、黒田等を内応させれば………」
「おぉ、そして此度の合戦では先陣となるであろう福島が離反し、内府方は総崩れ
と………」
「その通りでございます。」
秀景は父隆景の血を濃く引き継いだ智将であった。やがて、彼等は輝元の名で福島正
則等に密書を送った。それにはこう書いてあった。
「もしあなたが我等に味方して下さり、勝利したならば、内府方についた大名の領土
を差し上げましょう。」
秀景はまた新たな策を練っていた。もし、恩賞を約束したからといって、人望のない
石田三成が出陣しては、諸将の戦意が下がってしまう。
ましてや、今回内応の約束をした諸将は特に三成が嫌いだった。秀景は広家と共に三
成の館を訪れた。
「治部少殿。あなたは此度の戦には出馬せずに願いたい。」
「吉川殿、何を申されますか………」
三成は広家等を疑っていた。だから、自分の出陣を止めさせようとしているのではな
いか。広家も考えた。いくら正則等がこちらに内応していると伝えても、三成は正則
の名が出ただけで機嫌を損ねるのではないか。三成と正則。二人は秀吉の小姓時代か
ら仲が悪く、特に朝鮮の役では、三成の讒言によって、恩賞を削られたのではないか
と正則等は思い、ますます三成を嫌うようになった。三成は官僚派であり、正則は武
功派であった。
「治部少殿は、内府等によって命を狙われている身です。きっと出陣の道中などで内
府の差し金に合うでしょう。」
秀景はなるべく三成の気に触らないように言った。三成も納得したらしい。
「合い分かった。吉川殿。戦の事は安芸中納言殿や備前中納言殿にお任せし、私は家
臣のみを送る事に致します。」
やがて、慶長(一六〇〇)年九月十五日。家康率いる東軍は七万五千、三成率いる西
軍は八万二千。しかし、東軍の内、家康の一門や直臣以外の武将たちは内応の約束を
され、その上家康は西軍からの内応者が出ると信じきっていたのである。午前八時、
新たに東軍の先鋒となった井伊直政・松平忠吉隊は一気に西軍の先鋒宇喜多秀家隊に
直撃した。しかし、宇喜多隊の明石全登の奮戦によって井伊勢は苦戦を強いられた。
直政が後続の福島隊に救援を求めようとしたその時、
「掛かれ!」
正則率いる六千の兵が六千六百の井伊・松平勢に襲いかかった。矢を避けつつも退い
ていく直政の背後に人影が現れた。正則の家臣で、先ほど先鋒が井伊軍になるのを辞
めさせようとした可児才蔵である。
「おい!井伊兵部!そなたは逃げる気か!そのようなことをしていては、そなたの赤
い兜が泣くぞ!」
「何を申す!この裏切り者が!」
「たわけ!そなたの主の家康の方が太閤の恩を忘れた裏切り者ではないか!」
「やかましい!」
直政はそう言い残して落ち延びていった。井伊・松平隊が壊滅すると、その後続の武
将が福島勢を迎え撃った。
「おい、才蔵!無理をするな、あ奴は本多忠勝じゃ。」
「殿、何を仰せになる。我が兵は六千、敵兵は僅か五百ですぞ。勝てぬはずがあるま
い。」
正則が止めるのも無視して、才蔵は本多勢に襲い掛かっていった。しかし、本多勢に
は退く気配がない。しかし、こちらへ打って出る様子は見て取れた。しばらくする
と、本多隊の背後に大軍の姿があった。毛利・吉川・小早川・安国寺隊合計約四万の
大軍であった。しかし、忠勝は動かない。彼は、小牧長久手の合戦を思い出してい
た。その時忠勝は、僅か二百の兵で数万の秀吉軍の動きを封じ込めた。此度もまた、
そうすれば良い。忠勝は、一気に小早川勢に襲い掛かった。しかし、いくら忠勝とい
えども八十倍の兵に囲まれては仕方がない。
「そなたは本多平八郎殿でござろう。その鹿の角の前立てで分かる。そなたなら私に
不足のない敵じゃ。我は吉川元氏である。」
元氏は忠勝の前に立ち塞がった。しかし忠勝は元氏に向けて太刀を振ると、そのまま
五百の兵を従えて戦場から姿を消した。そして、次に西軍が目指すのは東軍の総帥家
康軍三万であった。やがて、家康本陣に福島・加藤・細川・黒田・浅野・池田の当初
東軍であった軍勢が襲撃した。その背後から、大谷・平塚等の軍勢も襲い掛かってき
た。
「家康殿、そなたは太閤の誓紙をことごとく破られた。この報い、今ぞ晴らして進ぜ
よう」
三成の親友の大谷吉継が頭巾から覗く眼で家康を睨みつけ、太刀を振り下ろした。家
康の首がその時、宙を舞った。享年五十九歳。
 やがて、家康の後に五大老の一人となったのは、他でもない秀景であった。以前、
彼の父隆景が五大老であったのと、豊臣家存続の恩人と考えられたのが理由であっ
た。やがて、輝元・元長・秀景は新領をもらい、秀元・元氏・広家・秀包・秀秋等は
分家を立てた。こうして毛利家は維新まで残った。